~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「729年、長屋王の変」です。

『古代史講義戦乱篇(2019)』(文化庁文化財第二課主任文化財調査官、山下信一郎先生)を参考にさせて頂きました。

奈良時代は大仏のイメージしかありませんでしたが、こんなに「どろどろ」した時代だったんですね…。

でも、面白いです。

里中満智子先生の「長屋王残照記」も大変勉強になりました。

①長屋王の変
②長屋王の変をめぐる諸説
③長屋王という人物

①長屋王の変

729年、長屋王、「謀反」の疑いをかけられる。
平城京の自邸で自害し、妻、子供4人も後を追う。

長屋王は当時、「左大臣・正二位」という当時、政府における最高権力者の地位にあった。

「長屋王残照記」より。息子の基皇子を1歳になる前に亡くした聖武天皇は錯乱。長屋王が呪い殺したと吹き込まれる。

「長屋王の変」経過(続日本書紀)

★密告から自殺までわずか3日間というスピード処理
★同じ妻子でも藤原不比等の娘および彼女が産んだ子供は死を免れた
★連坐制が適用されなかった
★冤罪であることも書かれている

2月10日平城京左京の住人2人が長屋王が密かに人民を惑わすまじない(左道)をしていると密告

★政府はその夜、東国に通じる三関を固守
★藤原宇合は中央軍(六衛府)を率い長屋王邸を取り囲む
2月11日午前10時頃舎人親王、藤原武智麻呂らが、長屋王邸に派遣され尋問
2月12日長屋王自殺。妻の吉備内親王、子供4人も自殺
2月13日長屋王及び吉備内親王を生駒山に丁重に葬る。
2月15日全国の国司に長屋王の変を告げる。
不穏な動きを封じるために人民の集会を禁止した。
2月17日長屋王の与同者7人が流罪、その他90人は赦された。
2月18日長屋王の兄弟、親戚らは連座の罪を赦された。
2月21日密告者に褒美が与えられた。
2月26日長屋王の兄弟に対して従来どおりの給付を約束。
738年7月10日長屋王の密告をした中臣東人が大伴子虫に斬殺される

※東人の密告は虚偽であったことが記されている。
※2人は隣同士の役所に勤め、仕事の合間に碁を打っていた。
※長屋王の話題が出た時、かつて長屋王に仕えていた子虫は激昂し斬殺。
「長屋王残照記」より。この後、小虫は東人を斬る。しかし、割と罪は軽かった。

②長屋王の変をめぐる諸説

一般的には「藤原氏の陰謀」と語られていますが、「聖武天皇黒幕説」も浮上しています。

いずれにしても、サラブレッドであり、なお大量の皇子を輩出していたことから警戒され、排除されました。

河合敦先生の変と乱の日本史はコチラ

a.【光明子の皇后即位に邪魔】説(岸俊男先生:1957)

藤原光明子(聖武天皇の妻の1人)を皇后につけようと目論む藤原氏が、これに反対するであろう長屋王を除いた政変とする説。

727年、聖武天皇と光明子の間に息子が生まれたが、翌年死んでしまった。

聖武天皇と県犬養宿禰広刀自の間に皇子はできたが、このままでは藤原氏は外戚の立場を失う。

そのため、皇子が生まれなかったら光明子を皇后から天皇に即位させるプランを考えていた

しかし、律令の規定では光明子は内親王ではないので皇后になれない。

「太夫人」称号事件(下記)からも窺える長屋王の性格からして光明子の立后は認めないであろうから「邪魔者」であるとして殺害したという説。

長屋王死後の729年8月に光明子は立后。

b.【長屋王の息子の皇位継承妨害】説(寺崎保広先生:1999、 大山誠一先生:1993、木本好信先生:2013)

長屋王及び妻の吉備内親王との間に生まれた男子が皇位継承の有力候補となる可能性があり、それを藤原氏が恐れたために濡れ衣を着せて王夫妻と男子を殺害したという説。

c.【聖武天皇黒幕】説(河内祥輔先生:1986)

母が皇女ではなく藤原氏出身である聖武天皇は、皇統として長屋王に対して劣等感をもっていたうえに、自分の皇子は死に、多くの男児を産んでいた長屋王家を脅威に感じていたために行ったという説。

(藤原氏が軸ではなく、聖武天皇を軸とした点が画期。)

d.【長屋王自身の即位妨害】説(金子裕之先生:1988、早川庄八先生:1993、森公章先生:2009)

出土した木簡から長屋王自身が親王として扱われており、皇位継承の有資格者だから抹殺されたという説。

(長屋王は高市皇子一族からなる「北宮(橿原市にあるもう1つの邸宅)王家」の長でもあり、より天皇家中枢に近い血筋である。)

※ただし、寺崎先生は50歳にもなる長屋王を若き聖武天皇の後継者とする見方に懐疑的。

e.【その他の議論】

一般的に「藤原四兄弟」とひと括りにされることが多いが、房前は長屋王と親しく、武智麻呂、宇合とは距離をとっていたため、「藤原四兄弟」をひと括りにすべきではない、とする研究者もいる。

「長屋王残照記」(里中満智子先生)より。藤原四兄弟の次男、房前(北家)は長屋王に傾倒する。

③長屋王という人物

長屋王は天智・天武の両家の血を引く貴種であった。

父・高市皇子(たけちのおうじ)

★天武天皇第1皇子
★壬申の乱で活躍
★母の地位が低かった(筑紫の豪族出身)ため後継とはならなかった
★皇太子草壁皇子没後は太政大臣として持統朝で活躍

母・御名部内親王(みなべないしんのう)

★天智天皇と蘇我姪娘(右大臣蘇我倉山田石川麻呂の娘)の間に生まれる
★同母妹が元明天皇

4人の妻

★吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の間にできた皇女)※長屋王の変で自害
★藤原不比等娘(長娥子)
★阿倍氏の娘
★石川氏の娘

スピード出世

元正天皇をサポートするよう、叔母にあたる元明天皇の大きな期待があったと推測されます。

704無位から正四位上に3ランクアップ。
709宮内卿(皇室業務)に任命。従三位。
710式部卿(人事など)に任命。
716正三位。
718大納言。藤原不比等の次位。
720不比等死後、太政官首班。
721従二位、右大臣。
724聖武天皇即位とともに正二位、左大臣。
「長屋王残照記」より。「皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)&藤原氏」vs「元明上皇・元正天皇&長屋王」という構図。

災異説を重視

災害や異変の有無によって政治の得失を決めることを重視していた風潮があるようです。

百万町歩開墾計画(722)、三世一身法(723)

太政官首班時代の政策としては百万町歩開墾計画(722)、三世一身法(723)。

「長屋王残照記」より。「三世一身法」は長屋王の思惑とは反対に、有力者が農民を動かしてより大きな利益を得る結果となる。

「大夫人」称号事件(724)

聖武天皇は母:藤原宮子を尊んで「大夫人」(だいぶにん)と称する勅命を発したが、長屋王は公式の法律に照らし合わせて「皇太夫人」(こうたいぶにん)と言うべきと指摘。

物事を厳密に取り扱う長屋王の性格が窺えます。

「長屋王残照記」より。か、かてぇ…
「長屋王残照記」より。やっぱり、かてぇ…。

長屋王家木簡が語るもの

★1986年~1989年、百貨店建築に伴い長屋王の大邸宅が発見。多量の木簡が出土した。
★国家からの給付以外に奈良、大阪に所領を持っていた。
★3人の妻とその子と一緒に住んでいたと思われるが、藤原不比等娘とその子供とは一緒に住んでいなかったと考えられている。

♨邸宅から牛乳を飲んでいたということもわかった。

長屋王自身に野心があったのではないか?という説もあるようです。

「長屋王残照記」より。理想の政治を行うには権力が必要と気づいた?

聖武天皇時代はコチラ

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