こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「江戸幕府と国防」(2013年)です。
本書は「17世紀前半から19世紀前半における幕府の異国船対策」について記したものです。
このテーマ、非常に興味をそそりますね。
航海技術の発達により、日本は「もっとも安全な国」から「もっとも危険な国」となりました。
それにも関わらず、「湾岸警備は各藩、自前」とは・・・
長崎や蝦夷の人たちのように実際に異国船に接した地域と中央では対応に温度差がありました。
ペリーが来る「前」にもこれほどドラマが存在していたということがわかります・・・
以下、読書メモです。
第1章:異国船来航への備え
§1.家光政権による沿岸警備体制の構築
- 1637年 島原の乱 【コチラも】
- 1639年 ポルトガル船来航禁止を諸大名に伝える。
- 1640年 ポルトガル船再来。焼き払い、処刑する。報復に備え長崎警備。
- 1646年 明清交代の真っただ中であるが援軍を派遣しない方針を西国大名に伝える。
※1640年、鎖国令に則ってポルトガル船を駆逐しましたが、この時期、ポルトガルは既に衰退期に入っておりまして、報復するほどの余裕はありませんでした。
※1621年フィリペ3世の時期くらいから状況変化。1640年からブラガンサ王朝となる。
宣教師を乗せた異国船が来ることを想定して長崎を中心に警戒していました。
また、キリスト教諸国は明清動乱に乗じて、中国人をキリスト教に改宗して日本社会に影響を及ぼすという策までも練っていたようです。
また、明清交代の動乱に乗じて日本に逃れ来ることも想定していた。
※『図説ポルトガルの歴史(金七紀男、2011年、河出書房新社)』もオススメ。
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§2.ポルトガル使節船来航への対応
1647年 長崎にポルトガルの「黒船」現れる。
ポルトガルは自国の代替わりのあいさつへのお礼を言うための来日であったが、2艘のポルトガル船に対して、大名らが個々、自発的に警備に参加してきてその数は5万人となり、江戸からの指示を待った。
とはいえ、江戸ー長崎は遠く、意思疎通がスムーズにいかない。「まったく」統制はとれず、「ひどい」有様であった。
毎日会議が行われるが決着がつかない。
といった状況。
§3.現実対応から見えた課題
ポルトガル船は帰ったとはいえ、軍役規定など事細かに決めずにいたこともあり、統制がとれなくなっていたことは幕府もみとめた。
以後、沿岸警備体制を整備した。
驚く事なかれ、4代将軍家綱の時代には既に長崎に「台場」が設置されていました。
①ポルトガルの衰退
②明→清の王朝交代
③ポルトガル船の来日時(1647)にパニック
第2章:異国船問題と幕府外交姿勢の硬直化
§1.将軍代替わりと南蛮船対応方針の祖法化
- 1652年 将軍が家綱に代わるがキリシタン政策も家光の「意向」として継承する。 幕府の対応方針が明確になっていく。
§2.幕府外交姿勢の硬直化
- 1673年 イギリス船リターン号が長崎に出現。武具引き上げなど手順に沿って対応。「商売船」であることがわかったが、幕府は通商を拒否。
- 最大の理由はイギリス王室とポルトガル王室の縁組。 諸大名がこの問題に独自に判断して動かないように統制はとれたことは評価できる。
※イギリスとポルトガル王室の縁組はオランダにより伝えられておりました。
♨ちょこっとポルトガルの歴史
- 1648年の「ウエストファリア条約」でオランダの承認、スペインの没落、フランスの興隆。三十年戦争で様相が変化した。
- 1654年の「対英ウエストミンスター条約」でブラジルからオランダ人を排除。しかし、砂糖産業のノウハウが海外に知れ渡ることとなり、砂糖産業衰退の原因になる。
- 1659年、スペインとフランスがピレネー条約を結ぶ。フランスの本音はスペインとの同盟。これによりスペインは本格的にポルトガルに矛先を向ける。
- 1661年、ピレネー条約に対抗してイギリスと同盟。王女をチャールズ2世に嫁がせるが、この代償は高く、大金のほかに、タンジール、ボンベイをイギリスに割譲。対英隷属の始まり。
§3.政治・政策的境界の明確化
- 1685年 野母遠見番所の沖に1艘の船が出現。遭難した日本人であった。この件ののち、漂着民であれ送還を拒否することを決定。
第3章:新たな異国船の問題と幕府の論理
§1.通商統制不安定化に対する綱吉政権の模索
- 1683年 台湾の鄭氏が清朝に降伏。清朝は海禁令から展海令に変換。これにより長崎を目指す唐船が増加。
- 1686年 貿易額を抑制。荷物は小規模になったが来航数は増えた。
- 1689年 抜け荷対策として唐人屋敷の設置。
- 1690年 雲南省で銅山が発見された影響で日本の銅が下値に。南京で大火などあり日本との貿易は低下。
- 1698年 唐人による不法行為、騒動、狼藉等が度々生じる。ただ国際問題を恐れて、長崎奉行の一存では厳しく裁けず。その後も20年近く続く。海賊も横行。
台湾降伏により海禁→展海となり、唐船増加、唐人屋敷の設置(1689年)となる。
当時は綱吉時代。(新井白石はまだ。)
※1689年というと、世界史ではロシアと清の国境が定められた「ネルチンスク条約」。ロシアがもう近づいてきているのだ。
§2.正徳新例と沿岸警備体制強化
- 1714年 新井白石、家継政権において幕府の宥和政策から強硬政策へ転換。
- 1715年 正徳新例にて、銀銅の取引高、船の来航数を制限。通商許可証も必要に。
清朝は日本以外への渡航禁止をしていた。
幕府は「抜け荷」(密貿易)に手を染める日本人が出ないよう警戒した。
幕府の警戒対象は南蛮船よりも唐船に集中。
§3.吉宗政権と「唐船」打ち払い
- 1718年 実際に唐船打払い
- 1720年 目明し(スパイ)を使い、囮作戦成功。
しかし、実際に対応したものと、江戸にいるものとで徐々に認識のずれも生じる。
台湾降伏(1683)→展海令→唐船増加
ロシアの東方進出→清との間にネルチンスク条約(1689)
警戒対象は南蛮船から唐船へと変化。
第4章:日本を取り巻く環境の変化と幕府対外政策
§1.異国船問題の重点移動
- 1739年 ロシア船4艘が日本探検。3艘は仙台湾し79隻の船に取り囲まれ、1艘は房総半島に到着し、100隻の船に取り囲まれた。吉宗政権時代。
- 1771年 カムチャッカから脱走してマカオを目指したベニョフスキーが土佐、阿波、奄美大島に寄港。ロシアが日本に侵攻するという書簡も持っており、ロシアによる来航が現実的な問題として意識される。家治政権下。
- 1779年 キャプテン・クック死後の乗組員たちがペトロハバロフスクから千島列島に南下して本州東岸を通り、マカオへ向かっている。
- 1789年 アイヌが蜂起。アイヌも130人死亡するが、日本人も71人死亡。背後にロシアがいると睨む。幕府のアイヌ政策に変化。 (クナシリ・メナシの戦い)
- 1791年 異国船取り扱い令。必ず臨検し、拒否すれば攻撃。この時期、ロシアが朝鮮を攻めたという情報が入り、ロシア脅威論が社会問題化。
- 1792年 ラスクマンが根室に来航。大黒屋光太夫を伴う。松平定信は祖法について話し、長崎へ向かうよう伝える。この時、貿易許可証である「信牌」も手渡された。
- 1793年 長崎奉行から黒田家、鍋島家にロシア船来航時の準備を指示。この頃は長崎防備より九州北西部での抜け荷問題の方が主であった。武器は100年前のもので使い物にならなかった。
- 1796年 ブロートンが乗るイギリス船が室蘭に渡来し、津軽海峡を測量。
この時期の「異国船」といえば、ロシア。
※日露戦争における「ロシア脅威論」はイギリスにより植え付けられた(「日露戦争の真実」山田朗)というが、江戸時代からずっとロシアが脅威だったのではないか?
※ロシアは18世紀にピョートル大帝(在1682-1724)、エカチェリーナ2世(在1762-96)という2人の偉大な皇帝を輩出。
1689年のネルチンスク条約はピョートル、
1792年のラスクマン来航時はエカチェリーナ2世の時期。
♨ちょこっとピョートル1世
- 1689 シベリア進出の結果、清とネルチンスク条約締結
(※ただし当時、実権は握っていない) - 1696 南下政策でオスマン帝国と激突
- 1697 コサックを駆使してカムチャッカ探検。日本との通商路を模索。
- 1700 北方戦争
(→1721年ニスタット和約)
♨ちょこっとエカチェリーナ2世
- 1768年 露土戦争→(1774年 キュチュク=カイナルジャ条約)
- 1772年 第1回ポーランド分割
- 1773年 プガチョフの反乱
- 1780年 アメリカ独立戦争に際し、武装中立同盟
- 1793年 対仏大同盟、第2回ポーランド分割 ※ずっとイギリスとは争っているが、対仏大同盟では協力。
(※対馬事件が生じた1861年時点ではクリミア戦争などで当然対立。)
§2.対馬海峡の危機
- 1797年 釜山へ異国船。朝鮮には倭館もあるが、国防自体が甘いため朝鮮もろとも倭館も侵略される恐れがあった。宗家は朝鮮との友好維持を前提に、20人ほど派遣決定。幕府は何も手を打たないまま終わる。
§3.対馬沖漂流異国船への宗家と家斉政権の対応
- 同年、再び釜山に異国船。イギリス船が漂流したと思われる。何も起こらなかったが、この時、幕府は相当危機感をもって対応。日本海沿岸も強化したが、裏を返せ何にでも敏感に反応せざるを得ないような状況であった。
§4.レザノフの長崎来航
- 1804年 レザノフが通商を求めて「信牌」をもって長崎を訪れる。「信牌」を持っていたこと、レザノフの態度が良かったため、それほど警戒せず。しかし、4か月ほど待たせて、幕府は「通商拒否」と回答。
1739年の吉宗政権時にロシア船の漂着は既にあった。
1770年代以降はロシアの脅威が社会問題化していた。
当時の各藩の武器は100年前のもので、使えそうになかった。
第5 章:危機意識の高まりと有事対応の変化
§1.蝦夷地の紛争と長崎
- 1806年 レザノフは部下のフヴォストフらに報復を指示。樺太、択捉、礼文沖などで襲撃を受ける。ロシアの強さは際立ち、責任を取った函館奉行は自決。幕府はさらに人員を動員するほか、「ロシア船打払い」を命じる。
俗に言う「フヴォストフ事件」。
この文化年間のロシアとの紛争が近世日本の対外関係の転換点である。
この時期、大槻玄沢、杉田玄白、松平定信らは開国についての意見も出していたが、幕府はレザノフへの対応を失政ととられないがために、「ロシア船打払い」という強硬な意見を採用した。
§2.御船頭による長崎警備についての献策
- 1808年 船頭による献策は、長崎で船橋を用いて入港を防ぐ防衛ラインを設けるアイデア。警備は町ぐるみで対応することが決定。 蝦夷の紛争を深刻に受け止めた。
§3.長崎奉行の問題意識と幕府の判断
しかし、幕府は船頭らの献策を採用せず。長崎警備は改編されなかった。
§4.有事対応の変化
- 1808年 フェートン号事件。
イギリス船フェートン号はオランダ船の拿捕を目的としてオランダの国旗を掲げて長崎に入港。検使に同行したオランダ人2人を拿捕し、長崎奉行には食糧を要求して提供を受けた後、オランダ人を解放して帰った。当番であった鍋島家の兵力は110人程度しかいなかったことからフェートン号の要求を飲むしかなかったが、長崎奉行松平康英は責任をとり自害。
(そもそもこの事件は、ナポレオン戦争でオランダがフランス領になったために生じた。) 【コチラも】 - 1809年 台場増築。市民にも有事の際の手筈が定められる。
この時期に来るオランダ船はないとオランダ商館長からは伝えられており、十分に警戒していたのに生じた事件でもある。
長崎は天領であるが、周辺大名しか兵力を持たないと言う問題がある。
逃げ惑う人もいたが、戦いを覚悟する地役人層もおり、帯刀を許されない地役人層にも帯刀をゆるし、長崎の要所を固めた。
♨平和な時代に住む我々にとって、異国船が来て逃げ惑うなんていうことは現実面で想像がつきにくい。
- 1809年 英露が攻めてくるという情報を得て、警備強化。
- 1811年 ゴロウニン事件。
南千島列島の測量のため国後島を訪れたロシアのディアナ号艦長ゴロウニンを松前藩の役人がとらえ、2年間監禁。
副艦長リコルドは報復として高田屋嘉兵衛ら6人をカムチャッカに連行。
2年後、身柄交換で処理。
フヴォストフの件は個人的な海賊行為とのことで落着し、ロシア問題は解決(?)。
蝦夷警備は縮小、松前藩に蝦夷地返還。
♨1804年のレザノフにはじまり、1806年のフヴォストフ、1808年のフェートン号事件とすでに危ない兆し。
1811年のゴロウニン事件で解決したとは思えない…
- 1818年 イギリス商船ブラザーズ号が浦賀に来航。無事処理。
- 1822年 イギリス捕鯨船サラセン号が浦賀に来航。無事処理。
- 1824年 大津浜事件。常陸大津浜に二艘の船に乗ったイギリス人12人が上陸。捕らえる。
- 1824年 宝島事件。薩摩宝島にイギリス船が来航し、牛を奪い、島民には発砲。応戦して追い払う。1人は射殺。
- 1825年 「異国船無二念打払令」を出す。
大津浜の事件が解決しない時期から林大学頭述斎、天文方高橋景保、勘定奉行遠山景晋、目付大草高好らが意見書や上申書を提出。最終的に遠山の意見が採用。
遠山景晋、筒井政憲といった長崎奉行経験者はそろって外国船は海賊同様の振る舞いをすると認識。
♨この時点では西洋諸国と戦争になる可能性があると幕府はまだ思っていない?
- 1837年 アメリカ船モリソン号が日本人漂流民を乗せて浦賀に来航。砲撃で応対。
- 1840年 アヘン戦争勃発。時の老中は水野忠邦。
- 1842年 アヘン戦争後、日本にも通商を要求し、拒んだ場合は戦争をしかけるという情報。これにより、異国船無二念打払令が撤回され、「薪水給与令」が出された。
- 1843年 新潟を上知して新潟奉行を新設。
- 1845年 オランダ国王からは開国勧告を受け、海防掛を新設。イギリスから測量船が長崎に。
- 1846年 アメリカ東インド艦隊司令ビッドルが浦賀(江戸湾)に来航。(とりあえず帰ることになるが、帰り際に間違えて斬られそうになるという大事件)
- 1847年 フランス船が長崎に。
- 1848年 日本海に異国船が頻繁にみられる。
- 1849年 長崎にアメリカ軍艦プレブル号が来航、浦賀・下田にイギリス軍艦マリナー号が来航。注目すべきはこの時期、阿部正弘が打払い令の復活を考えたが、ことごとく反対されたことである。この時期、すでに外国の侵略は現実的であった。
♨アヘン戦争の衝撃が大きすぎた。無二念打払い(1825)→薪水給与令(1842)。
長崎警備を担っていた佐賀藩などは軍制改革を行って軍事力を高めていった。
- 1853年 ペリー来航。
遅れること1ヶ月、プチャーチン、長崎来航。その後、プチャーチンは函館、大坂にも来航。 - 1854年 日米和親条約。
幕府は下田、箱館を開港。その後、イギリス東インド艦隊司令官スターリングが長崎を訪れて日英約定4カ条調印。下田、函館とともに、長崎もイギリスに対して開港されることになった。ロシア、フランスにもこれが適用。 - 1858年 日米修好通商条約
これによって長崎にも居留地が設けられ貿易規模が拡大。異国船の来航は増加したが、大名家の負担はなくなる。それは同時に防衛をしない、ということを意味していた。
ペリー来航後、海防に力を入れ、開国後は軍事力の近代化に取り組んだ。
ペリー以前は日本海、太平洋沿岸に各大名が台場を築いていたが、以後は江戸湾内、大坂湾内、志摩半島、瀬戸内海なども重視され、結局全国で400の台場が新築された。
日本の沿岸警備を各大名が局所的に考える時代は終わった。
♨欧米列強は産業革命に成功した実力をアヘン戦争でまざまざと見せつけた。
1806年のフヴォストフ事件は大きな衝撃を与えた。その後もフェートン号事件、ゴローニン事件、大津浜事件など、幕府は後手に。
1825年、無二念打払令を出して気概を示すも、1842年のアヘン戦争の結果を知り撤回。
1853年、ペリー来航。(コレ以降の話はまた幕末・明治維新の書籍がより詳しい)
まとめ
国防意識としては
ポルトガル人(1637年島原の乱)
→唐人(明清交代と1683年台湾平定が転機。1715正徳新令で制限)
→ロシア(1689年にはネルチンスク条約。1792年ラスクマン根室来航)
→イギリス(1840年アヘン戦争→1842無二念打払から薪水給与令へ変更)
→アメリカ(1853ペリー来航)。
幕府はそれなりに頑張ったかも知れないが、各藩で海岸線を守るような指示では不十分。
武器の新調含め、もっと早く国家で対策するべきであったはずだ。
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