こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦・高橋陽介、2018年、河出書房新書)です。
なかなか挑戦的なタイトルですね…
本書を知ったきっかけは、「日経おとなのOFF」2019年5月号(下記)の日本史特集です。
なんでも、従来の説は合戦から何十年も後に書かれた軍記物をベースにしているそうです。
しかし、一次史料を再検証した結果、
家康と三成は仲が悪くない
ということがハッキリしたんですって!
実際に「石田三成暗殺計画」を知った三成は、むしろ家康に通報したほどなんです。
そして、これまで「西軍の実質の大将」=「石田三成」と考えられていましたが、
これまた一次史料を検討したところ、
毛利輝元こそ、西軍の首謀者。
だそうです。
秀吉の遺言で政治は家康に託されましたが、
輝元は秀吉の死から10日後には浅野長政以外の五奉行と派閥を結成し、家康の勢力削減に動いているのです。
そして、前田利家の息子、前田利長に至っては徳川家康暗殺計画を企図しています。
また、秀吉の遺言では家康と淀殿が結婚する予定だったんです(!)。
しかし、それは秀頼の家臣、大野治長らが淀殿を連れて高野山へ逃げたことで破談になりました。
前田征伐は関係者の努力で何とか中止になったものの、今度は五大老の1人、上杉景勝が戦争準備をしているという疑惑が浮上して、会津征伐が行われることになりました。
(※五大老…徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家)
その機会に、増田長盛ら三奉行が、毛利輝元に大坂への出馬を要請し、輝元が西軍総大将になったという流れです。
(※五奉行…石田三成、増田長盛、浅野長政、前田玄以、長束正家)
というわけで、
打倒家康を目指す輝元と、使命を果たそうとする家康の対立、
という構図なんですって。
さらには、
小早川秀秋は前日の夜、東軍に参加
していたとも(!!)。
優柔不断な小早川に家康が発砲して寝返った、なんていうのは大違いであり、
小早川秀秋は優秀な参謀たちの意見を生かして、戦いの主導権を得た若き賢者。
流れとしては、
前日夜に松尾山で野営していた西軍の別部隊を追い出し占拠。
→裏切りに気付いた三成・小西行長らが出陣
→これを退却とみなした毛利秀元軍が降伏
→三成は福島隊と小早川軍に挟み撃ちにされ処刑。
そして、輝元が引き起こしたこの争乱は毛利家家老・吉川広家の口添えにより、
三成の仕業ということにされました。
これは早く政治を安定させたい家康にとっても好都合であった、というわけです。
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小早川秀秋は戦いの主導権を得た若き賢者である。