~只今、全面改訂中~

☞『§1-6.凡庸なリーダーと下剋上の論理(杉山元・瀬島龍三)&§1-7.空気に支配された集団(阿南惟幾・梅津美治郎)

【ひとことメモ】

★難局にあって無難なリーダーを選択することで最悪の結果を招いてしまうことはしばしばある。日露戦争をテキストとした世代は正直、失敗。教育の問題もある。

★終戦間際、陸軍はまだ戦えると主張もあり、ひと悶着ある。陸軍の暴走を抑えるために阿南が本土決戦論をパフォーマンスとして主張したのか、本気で決戦するつもりだったのかは疑問。

内容的にそれまでと比べて薄いので6章、7章はまとめて。とにかくポンコツ扱いされているのが杉山元。なんでそうなるのか、というと、やっぱり組織論になる。

組織論については、最近読んだ進化生物学の本【コチラ】で、「大きな集団は安定化選択をする傾向があり、能力が低すぎるものと、能力が高すぎるものが淘汰される」というようなことが書かれており、「あれ?、これって人間の組織にも言えるのでは?」と思っている次第。

(もっとも、進化論をスペンサー的に「社会進化論」に昇華してしまうことは危険であるが。)

話はちょっとそれるけど、どの国も「生物学者を1人は大臣にしないといけない」くらいの法律を作らないか?と思う。スウェーデンの16歳の子が地球温暖化反対のストライキを行っていてニュースになっていたりもするが、生物学的な視点こそ政治に最も必要と思てしまう。

【§6.凡庸なリーダーと下剋上の論理】~杉山元と瀬島龍三~

本来、参謀総長にある人物は参謀(幕僚統帥)の暴走を抑制しなくてはいけない。しかし、凡庸なリーダーであればどうなるか。それこそ杉山元である。

【杉山元】

写真はwikipediaより引用

略歴

1880 福岡県にて出生。
1900 豊津中学を経て陸軍士官学校(12期)卒業。(※1)
1904 日露戦争に従軍。顔面を負傷。
1907 陸大卒(22期)。(※2)
1912 商社マンに扮してマニラで諜報活動。
1915 インド駐在。チャンドラ・ボースなどとコネクションを持つ。
1922 初代陸軍省軍務局航空課長。「陸軍航空隊育ての親」。
1928 宇垣一成に重用され陸軍省軍務局長に。のち三月事件にも関与。
1932 荒木貞夫ら皇道派が実権を握ったことで左遷。
1934 真崎の罷免で皇道派は勢いを失い、杉山は参謀次長兼陸軍大学校校長に。
1936 二二六事件鎮圧。事件後には教育総監に。
1937 陸相に。盧溝橋事件拡大を支持。(※3)
1940 参謀総長就任。太平洋戦争の立案。(~1944)(※4)
1941 昭和天皇とのエピソード(※5)
1945 敗戦。自決。(※6)

(※1)幼年学校を経ない「中学組」としては出世の部類ではないか?同期には小磯国昭、畑俊六。

(※2)同期には竹田宮恒久王、小磯国昭、畑俊六(首席)ら。陸大の成績は15番と決して高くはないが、宇垣に気に入られて出世、二二六事件で上が飛んでさらに出世。

(※3)陸軍大臣時代に盧溝橋事件が起きたが省内を全く統制できず、ついたあだ名が「グズ元」。また、経歴だけ見ると輝かしく見えるが、実際は主流派にくっついて泳ぐだけであり、「押せばどちらにでも開く」という意味合いから「便所のドア」とも呼ばれていた。

(※4)陸相、教育総監、参謀総長を全て経験したのは昭和に入ってから彼だけ。

(※5)永野海軍軍令部総長とともに展望を聞かれて、「南洋作戦は三か月で片付ける」と豪語。しかし、「シナ事変の時は一か月で片付ける、って言ったよね?」と言われ、「シナは奥地が広うございまして」と答えると、「太平洋はもっと広いではないか」と言われ、言葉に窮するというエピソードは有名。天皇は明らかに杉山を信頼しておらず、本来であれば杉山が恐縮して辞職すべきほどであったが、張作霖爆殺事件の際の田中義一叱責、総辞職後死亡の件があったため昭和天皇も人事について自制した。

(※6)拳銃自殺を試みるが、安全弁の取り外しを知らずに、最初はうまくできず。

【瀬島龍三】

「転進 瀬島龍三の遺言」はコチラ

略歴

1911 富山県にて出生。農家で村長の家の三男。
1932 幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席で卒業(44期)。
1938 陸大を首席で卒業(51期)。(※1)
1939 満州へ配属。関特演など作戦立案。(※2)
1940 大本営陸軍部作戦課に。(※3)
1945 満州へ赴任。戦後はシベリアで11年間抑留。(※4)
1956 帰還。
1958 伊藤忠商事へ入社。
1978 伊藤忠商事会長に。
1982 中曽根政権影のブレーンに。
2007 没。95歳。

(※1)抜群の成績。彼の書いた文章などは全く直す必要がなかったとも。

(※2)ただ、立案に関して、ソ連軍は寄せ集めだから日本軍一個師団を100とすれば、75であると計算していたりと、アバウトで自分中心。実際の火力はソ連の方が強力であり、前提がおかしい。大本営が無能でありながら現場の指揮官が奮闘できるのが不思議なくらい。

(※3)ここで服部や辻と机を並べていたわけなので、彼らのやったことについて何度も聞いたが一切しゃべらなかった。ちなみに作戦部は「奥の院」とも言われる部署で、自分に都合の良い情報しか取り扱わない組織であったとも。インパール作戦退却を具申した情報部参謀に瀬島が「お前が言う筋合いはない!」と怒鳴ったことも。

(※4)ソ連との停戦時に日本人を労役として提供する密約を交わしたという説があるが、本人は否定。

【§7.空気に支配された集団】~阿南惟幾と梅津美治郎~

【阿南惟幾】

写真はwikipediaより

略歴

1887 大分県に出生。父は内務官吏として転勤を繰り返す。
1905 幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業(18期)。成績は920人中24位。
1918 三浪ののち、陸大卒(30期)。60人中18位の成績。(※1)
1927 フランス駐在。
1937 陸軍省人事局長に。(※2)
1939 陸軍次官に。(~1941)
1941 独断で第2次長沙作戦を実行するも大敗。(※3)
1945 敗戦濃厚となった時期に陸相就任。本土決戦を主張するも、これは陸軍の暴発を避けるための手段であろう。ポツダム宣言受諾後の8月15日、割腹自殺。(※4)

(※1)特に優秀と言うわけではない。理論より行動の人。

(※2)派閥に属していないことが良かった。石原莞爾も阿南には敬意。

(※3)この時期には珍しく玉砕作戦も断行。独断であったが、陸軍は阿南を更迭するどころか、1943年には陸軍大将に昇格させる。

(※4)ちなみに最後の陸相は下村定。人材難の時代にあって、阿南と下村がいたからこそ幕引きができた。

【梅津美治郎】

写真はwikipediaより。

略歴

1882 大分県にて出生。
1903 幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業(15期)。成績は7番。(※1)
1911 陸軍大学校を首席で卒業(23期)。2位が永田鉄山である。(※2)
1931 参謀本部総務部長。
1936 二二六事件後、陸軍次官に。(※3)
1939 ノモンハン事件後、植田謙吉に代わり関東軍総司令官に。(※4)
1944 サイパン陥落後、東条に代わり参謀総長に。(※5)
1945 終戦。降伏文書調印。(※6)
1949 東京裁判で終身刑となり服役中、直腸癌を患い死去。67歳。

(※1)同期には竹田宮恒久王、多田駿ら。

(※2)小畑敏四郎らも同期。一夕会には入らなかった。

(※3)当時、仙台にいたが、すぐに鎮圧すべしと提言した。陸軍次官就任後は、現役武官制の復活、皇道派の粛軍人事、陸軍が外交に介入した日独防共協定強化問題などに関与。石原莞爾もシナ事変の処理をめぐって参謀本部を追い出された。

(※4)太平洋戦争中に関東軍が暴発しなかったのは梅津の功である。

(※5)細菌兵器の使用も人類全体への戦争として使用を禁止している。

(※6)最後は当事者能力を失っていた?降伏文書の下交渉は参謀次長の河辺虎四郎(24期)が引き受ける。