~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表②:1854年」です。

再来航したペリーと、「日米和親条約」を結びました。

1854年(嘉永7年/安政元年)

1/16 ペリー、浦賀に再来航し、国書への回答を求める。(※1)

※本来もう数ヶ月あとに来る予定だったが、アメリカ大統領が共和党から民主党(ピアス大統領)に代わり、平和路線になりそうだったので先手を打った。
3/3 日米和親条約締結(※2)

※幕府全権は林復斎。
※決して一方的にやり込められたわけではない。
※条約内容は「下田、函館の開港」と漂流民の人道的救助などで、通商は約束していない。
9/18 ロシア軍艦(ディアナ号)大坂来航事件

※紀淡海峡の軍備の甘さを突く。
※これにより「摂海巡察隊」が組織され、勝海舟もその一員となる。
(1855年からは「長崎伝習所」。)
10/14日英和親条約

※ちなみに、この時期、イギリスとロシアはクリミア戦争中。ロシア船が長崎に来ているとの報を受けてイギリスも日本へやってきた。
11/4安政東海地震(※3)

※交渉目的で来日していたロシア船ディアナ号に津波が直撃。
11/27嘉永から安政に改元

黒船来航による混乱、安政東海地震の影響を受けて。
12/2ディアナ号沈没
12/21日露和親条約(※4)

プチャーチンと川路聖謨による。日本とロシアの国境も定められた。

(※1)予定より早くペリー再来航!

え!
1年後って言ったのに、半年しか経ってないやん!!
だって、大統領代わって、方針変わっちゃうとこですもん。

…現代なら、すぐにメールで伝えられますが、当時は往復書簡ですので、連絡をとるのに数ヶ月を要しました。

14代大統領ピアースは平和路線を掲げていたので、ペリーは大統領からの書簡が届く前に動く必要があったのです。

テクノロジーの発達は歴史を動かす一因ですね。

(※2)日米和親条約締結

ペリーは(中略)、江戸湾の測量を行うなど軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫った。幕府は同年3月、その威力に屈して日米和親条約を結んだ。

詳説日本史研究p319
この記述をされたら林復斎殿は報われんな…
だから日本史は自虐史観って言われるんだよっ!

ペリーは漂着時の人命救助と、捕鯨における補給・修理のための寄港地と、日本国内での交易を求めましたが、

林復斎は、ペリーの一番の目的が人命救助であるならが、交易は不要であろうと解き、結局、交易は国法にないためと認めず、寄港地も下田と箱館に限定。

開港地における外国人の行動範囲も林復斎がイニシアチブをとって決定しております。

戦争になるかもしれないと脅すペリーに対しては、「そうなるかも知れぬ」とひるみませんでした。

「控え目ながら」も理路整然と交渉を行う林復斎にペリーは感心するとともに、

元々24条あったペリーの要求は12条となって、交渉妥結に至ります。

ペリーは林復斎のような日本人がいることに畏敬をいだき、

「将来、日本はアメリカのライバルになるであろう」

と言ったとか。

【日米和親条約】主な内容

第2条:伊豆の下田、松前の箱館の両港はアメリカ船の薪水・食料・石炭などの足りないものを日本で調達するために渡来することを許す。

第9条:日本政府が外国人に対して、今回アメリカ人に対して許さなかったことを許した時はアメリカに対しても許すように。(=片務的最恵国待遇

第11条:両国政府においてやむを得ない事情を生じた時は状況によりアメリカの役人を下田に駐在させることもある。これは条約調印後18ヶ月を待たなくてはならない。

「超解!日本史史料問題」より一部改編

この条約が「不平等条約」と呼ばれるのは、9条の「片務的最恵国待遇」の部分ですね。

これは、もし日本が他国により良い条件を与えたとしたら、自動的にアメリカもその条件を適用するというもの。

相互ではなく、日本だけ(片務)というのがポイント。

 
最初に条約を結んだ国が有利、であります。

(※3)安政東海地震

プチャーチン一行は、交渉のため下田に入港したが、乗船ディアナ号は11月の安政東海・南海地震による津波により破損、応急修理のため戸田(へだ)村に向かう途中に駿河湾で沈没した。

日本史のライブラリー
下田で直したらイギリスのクレームが来ると考えて、伊豆半島西岸の戸田村まで運ぼうとしたけど、沈没。

代わりに戸田村で新しく造られたのが、「ヘダ号」。

ロシア人の指導の下、日本の船大工によて、日本初の洋式船が建造された。

この船でプチャーチンはロシアへ帰った。

こちらの本に詳しかったです。この時得た建造技術が将来、役に立ったとも言われております。

(※4)日露和親条約

日米和親条約、日英和親条約に続き、日露和親条約も結ばれました。

第2条 今後、日本とロシアの国境はエトロフとウルップ島の間とする。エトロフ全島は日本に属しウルップ全島とそれより北のクリル諸島はロシアに属す。樺太においては日本とロシアの間の境界を作らず従来のとおり(雑居)とする

「超解!日本史史料問題」

ロシア側代表はプチャーチン、日本側は川路聖謨です。

我が国が初めて国境策定した例ではないでしょうかね?
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