~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉓:1867年12月」です。

前月に3000の薩摩藩兵が上京。

8日から行われた朝議では「長州藩兵の入京」、「長州藩主毛利家の赦免」、「岩倉具視(蟄居中)、三条実美(政変で追い出された)らの赦免」が決定しました。

さらに、徹夜で議論がなされ、明けの9日、「王政復古の大号令」が行われました。

これにより、鎌倉時代より続いた「幕府制度」も、

平安時代から続いた「摂政・関白制度」も終焉し、

身分の上下に関わらず、会議をつくして、

天皇の「叡慮」を仰ぐ、という形式が発表されました。

ただ、全国に広がる徳川家の土地をどうするかは、未解決のままでした。

土地の取り上げを要求する新政府に対して、

慶喜は家臣の暴発を抑えるために、二条城(京都)から大坂城へ移ります。

1867年(慶応3年)12月

12/7兵庫開港
12/8 朝廷会議

※長州藩兵の入京許可。長州藩主・毛利家も官位復旧。
岩倉具視、三条実美も赦免
※岩倉は入京してきた薩摩、土佐、安芸、尾張、越前藩に王政復古の協力を求めていた。
12/9 王政復古の大号令、小御所会議(※1)

※前日からの朝議が徹夜に。午前4時に決行されるはずが、午前10時に。
※会議を主宰した摂政・二条斉敬が御所を退出すると、代わりに岩倉具視が参内し、中山忠能(天皇の外祖父)らとともに「王政復古の大号令」を行った。
※ただちに上記5藩が御所を封鎖。それまで御所の門衛にあたっていた会津・桑名両藩兵を追い出した。
※また、慶喜の将軍職辞職を勅許、摂政・関白、京都守護職などを廃止して新たに総裁、議定、参与の「三職」(さんしょく)を設けた。
※薩長と会津・桑名は緊張状態。もっとも、会津桑名を窮地に追い込んだのは慶喜であるとの評。


続いて行われたのが、小御所での三職会議。

※土佐藩・山内容堂は慶喜の出席を求めたが、岩倉具視は慶喜の「辞官納地」を要求して会議が紛糾。
※容堂が「幼帝をかついで権力をほしいままにしようとしているではないか」と言うと、「幼帝とは失礼ではないか」といった始末。
※休憩中に、そのことを尋ねられた西郷は「短刀一本あれば片が付くではないか」といったことで、容堂は身を案じ、閉口したと言われている。(フィクション?)
12/10長州藩、上洛
12/12薩摩藩の強硬姿勢に反発する在京諸藩も(肥後藩、筑前藩、阿波藩)

※薩摩藩内からも反発あり
※松平春嶽「五藩だけでは私議である。早く公議を行うべき。西郷、大久保らは悪。」
※慶喜は佐幕派に自重を求める
12/13 慶喜、大坂城に入る(※2)

※家臣の暴発を防ぐとともに、持久戦に持ち込む姿勢
12/16慶喜、外国公使の前で外交の窓口は自分であることをアピール

※政権維持を主張。
12/18 朝廷、会津・桑名両藩に帰国を命じる

(※ところが逆に大坂から伏見に繰り出す。)
12/19慶喜、「公議ができないなら王政復古の大号令を取り消すべき」と朝廷に要求
12/21 薩摩藩などに伏見の巡回、警備を命じる

※土佐藩と広島藩は拒否。薩摩藩に対する反感から新政府の足並みの乱れが露呈。
12/23 江戸城二の丸御殿出火
12/25 薩摩藩三田屋敷、庄内藩士により焼き討ち

※江戸では相楽総三らが西郷の命令でさんざん放火・強盗・殺人を繰り返していたため、ついにブチ切れた。
12/26 大藩の京都留守役、朝廷による苛酷な処分を批判する文書作成
12/28 朝廷、 慶喜を議定に任じることを決定し、上洛を命じる

薩摩藩邸焼打ちの報、大坂城内に伝わり、「薩摩討つべし」の声が高まる。

西郷は戦争準備

(※1)1867年12月9日

薩長両藩は、この公議政体論をおさえて政局の主導を握るため、両藩兵を集結させるとともに、12月9日に政変を決行して、いわゆる王政復古の大号令を発し、徳川慶喜を除く新しい政府をつくった。

新政府は、幕府はもちろん朝廷の摂政・関白も廃止し、天皇のもとに総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を設置した。

ここに260年余り続いた江戸幕府は廃止され、天皇を中心とする新政府が発足し、「諸事神武創業の始」に基づく「百時御一新(ひゃくじごいっしん)」の方針がかかげられた。

総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族・公卿と松平慶永や山内豊信らの諸侯10名、参与には公家から岩倉具視、雄藩の代表として薩摩藩からは西郷隆盛・大久保利通、土佐藩からは後藤象二郎・福岡孝弟、ついで長州藩から木戸孝允・広沢真臣らが任じられ、雄藩連合のかたちをとった。

「詳説日本史研究」p327
岩倉具視
平安時代から続いた摂政・関白制度も、将軍による幕府制度も終わった。

これからは話し合いで、天皇の「叡慮」に合致する意見が採用されるんだ。

 
大久保利通
王政復古の大号令は、私と岩倉卿が国学者の玉松操先生に書かせたと言われております。

私も岩倉卿も、既成の身分制度のもとでは、とても国政に参加できるような身分ではありませんでしたから、

「公議は身分に関わらず話し合いを尽くす」というニュアンスの文言をわざわざ入れました。

「公議」というが、5藩だけじゃ、「私議」じゃろう?
明治天皇
天皇の「叡慮」に合致する意見と言いますが、実際のところ、私の「叡慮」を掌握しているのは、軍事的に御所を確保している薩摩藩兵たち討幕派グループなんですね。