こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表㉔:1868年1月」です。
慶喜は家臣の暴発を防ぐべく、大坂城へ引きあげました。
そして、旧幕府軍が「討薩表」を朝廷に渡しに京都へ向かったところ、
待ち構えていた薩摩藩兵と、戦いが起こりました。
この戦いを、場所にちなんで「鳥羽・伏見の戦い」と呼びます。
「戊辰戦争」のはじまりです。
1868年(慶応4年/明治1年)1月
1/1 | 慶喜、「討薩表」を発令 |
1/2 | 幕府軍、大坂城を出て京都に向かう。 ※慶喜は朝廷により議定に議定に任じられた。 ※朝廷は慶喜に軽装で来るように命じる。 ※徳川家臣団は慶喜の無罪と、「討薩表」の受理を求めて上京。 大坂湾では榎本艦隊と薩摩藩軍艦が交戦。 |
1/3 | 「鳥羽・伏見の戦い」はじまる。(※1) ※道を開けろという旧幕府軍に対して、薩摩藩兵は「朝廷に聞いてくるからそこで待っとけ」と言い、その間に戦闘準備を整える。 ※旧幕府軍がしびれを切らして入京しようとしたところ、戦闘準備を整えていた新政府軍が銃撃。 ※そもそも旧幕府軍は京都に入る途中での戦闘を想定しておらず、銃撃に驚いて指揮官(滝川具挙)が真っ先に退却し、指揮系統が崩れた。 ※同日、慶喜は大坂在中の各国公使に薩摩藩討伐の意思を伝えている。 |
1/4 | 仁和寺宮、征討大将軍に任命され、錦旗を掲げて東寺に進む。 (※2) ※土佐藩、薩土密約に基づき参戦。 ※人数に劣る新政府軍は天皇を連れて西国に逃げるプランもあった。 |
1/5 | 淀藩の裏切り(※3) ※淀城へ逃げ込もうとするが、断られる。 |
1/6 | 慶喜、大坂城脱出。(※4) ※松平容保らを無理やり引き連れて、海路、江戸へ向かう。 ※いまだに賛否両論。 ※味方の津藩から砲撃も受ける。 ※ただ、死者279人で敗北とは言えまい…。 【女系図でみると面白い。コチラ】 |
1/7 | 朝廷、慶喜追討令を出す。(※5) ※今度は慶喜が朝敵に。 |
1/10 | 旧幕府領の接収・御領化を通告 |
1/11 | 神戸事件 ※備前藩兵が隊列を横切ったフランス水兵を負傷させ、さらに列国外交団銃撃まで発展 ※新政府はじめの外交問題 ※責任者切腹 |
1/12 | 慶喜、江戸城に戻る (※6) ※小栗忠順、抗戦作戦を主張したところ慶喜により解任を通告される |
1/13 | 歩兵頭、駿府警備を命じられる |
1/14 | 錦旗紛失事件 ※神戸事件の影響で、当時、神戸は列国に占拠されていた。 ※それを知らずに通り過ぎようとした土佐藩士が検問を受けた。 ※本山茂任は錦の御旗を板垣退助の迅衝隊に届けようとしていたが、フランス兵に奪われた。 ※その後、伊藤博文らが陳情して返還。 |
1/15 | 新政府、大政復古と開国和親の方針を各国公使団に通告 慶喜、主戦派の小栗忠順を正式に解任、恭順の意を示す。 |
1/17 | 慶喜、松平慶永たちに弁明の書状送る |
1/19 | ロッシュ(仏)、慶喜に再起を促すが、慶喜はこれを拒否 |
1/20 | 青松葉事件 ※尾張藩で佐幕派が粛清される。 ※これにより新政府軍は東征がより容易に。 |
1/23 | 目付を箱根・碓氷関所に派遣する |
1/25 | 幕府陸軍総裁に勝海舟、海軍副総裁に榎本武揚が任命される。 英国(パークス)、局外中立を宣言(※7) ※フランスをはじめ、他国も続く。 |