こんにちは。
今回ご紹介しますのは、前回に引き続きまして、『幕末日本と対外戦争の危機』(保谷徹、2010年、吉川弘文館)です。
数々の外国人排斥事件を経て、幕府は「国民の反対」を理由に横浜鎖港を要求します。
しかし、幕府の運動への関与を疑い出したイギリスは、対日戦争のシュミレーションを開始しました。
最大の取引先がイギリス。
鎖港するなんて、許すまじ。
こうした背景も頭に入れておくと良いと思います。
以下、読書メモです。
<イギリスの対日戦争準備>
イギリスの軍事担当者は、
①特定の大名との戦い、
②ミカドと大名の一部との戦い、
③日本政府との戦い
の3パターンを考えました。
①「特定の大名との戦い」では、海沿いの大名は砲撃で制圧できるものの、
内陸はゲリラ戦に向いているため、完全制圧は困難と考えました。
②「ミカドと一部の大名の戦い」では、上陸して兵庫を基地にできると考えました。
しかし、食糧は中国から輸送する予定でした。
中国では「ライスクリスチャン」と呼ばれる生活のために改宗した人々が多かったために食糧の現地調達が可能でしたが、日本でそれは無理であろうと考えたためです。
結論としては、「京都を長期間占領することは難しい」でした。
③「日本政府との戦い」では、神奈川付近を基地にして、海上封鎖することが可能なので江戸攻略は容易と考えました。
というわけで、導き出された答えは、
「江戸、大阪攻略は容易。
京都、内陸は困難。
経費莫大。上陸は否定。」
でした。
また、居留民保護のため、上海から陸軍工兵隊を呼び出して密かに横浜・長崎の防衛計画を行いましたが、
「戦争になった場合、横浜・長崎居留地の防衛は無理」
と判断されました。
函館を抑えることはロシアへ牽制になるというレポートもありましたが、
最終的に、キューパー提督の考えは、
①横浜は丘で囲まれており大砲は常に悩まされる。敏活な敵軍ならここを見下ろすあらゆる地点から砲撃してくるので小戦力で維持することは不可能
②長崎も入江が狭すぎて防衛不可能
③函館は英国の権益が小さく「考察外」
④国家的なプライドと偏見が高いので仮に戦争で勝利したとしても商業の撤退と貿易停止となる
さらに日本の政権が勝手に崩壊する可能性も大なので、
全面戦争は英国の利益にもならず、なるべく回避したい
というものでした。
また、当時、イギリス本国ではグラッドストン蔵相により軍事費削減が行われていました。
薩英戦争で街を焼いたことは「国際法に背く」として、
非難されていたことなども日本にとっては追い風となりました。
この頃、日本では「参与会議」で国政が行われる方針でしたが、
徳川慶喜が島津久光らを「奸物」呼ばわりするなどして空中分解していました。
その後、「池田屋事件」(1864年6月)により新撰組が尊攘派長州藩士を殺傷し、
報復として「禁門の変」(蛤御門の変:同7月)が起こります。
<下関戦争とその舞台裏>
しかし、結論としては、下関戦争(馬関戦争)が起こります。
本国のラッセル外相は貿易重視を掲げておりましたが、
日本にいるオールコックは武力行動も辞さない構えでした。
そんな折、ややあいまいな訓令によりオールコックは砲台破壊の権限を得ました。
オールコックは本国帰国時、日本の情勢が貿易縮小に向かっていることを確認し、
これは幕府が邪魔していると考えたうえに、
幕府が長州藩を処罰する意思がないとも判断していました。
折よく太平天国の乱も終結していたため、
長州藩を攻撃したら各藩がどう出るか
を見るべく(全面戦争にならないという保証はないものの)、
オールコックは「賭け」に出ることにしたのです(!)。
また、
下関攻撃は「鎖港は不可能」と幕府に悟らせる好機
とも考えました。
もっとも本国は、オールコックが自国民の生命と財産の保護、既得権の防衛の範囲を逸脱し、かえって居留民を危険にさらすと考え、強制送還することを決定しました。
フランスは砲台への仕返しで十分と考えておりましたが、
オランダは下関戦争介入に積極的で、東インドの主力艦の投入を準備しました。
【戦争突入】
結局、1864年8月、ついに英仏米蘭は足並みを揃えて長州藩へ報復開始。
長州藩はなすすべなく敗退します。
オールコックはさらに攻め込むつもりでしたが、キューパー提督はこれを却下しました。
しかし、オールコックの思惑通り、幕府は「横浜鎖港要求」を撤回したのです。
【オールコックからパークスへ】
戦争後、オールコックが解任され、ハリー・パークスが後任として2代目の駐日英国大使となりました。
オールコックが目指していた次なる目的は「兵庫開港」でした。
パークスも引き続き兵庫開港を要求し示威行動をとり、
1865年11月、外国奉行・阿部正外、松前崇弘は勅許なしの兵庫開港を承認しようとしました。
しかし、禁裏守衛総督となっていた徳川慶喜が猛反対して、2人は官位剥脱、謹慎を受けます。
その後の朝議で徳川慶喜が必死に孝明天皇に訴え、ようやく長年の懸念であった「安政五カ国条約」(日米修好通商条約ほか)の勅許が得られます。
天皇から「兵庫開港は認めない」と言われてしまいましたものの、
勅許を得てからは、条約に異議を唱える者はいなくなりました。
課題も「外国人排斥」ではなく、「万国対峙の世界に耐えうる政治体制への構築」へと変化していくのです。
下関戦争前後にはこのような舞台裏がありました。
【年表整理】
1864 | オールコックの主導により四国艦隊、下関砲撃。 →長州藩では尊攘派にかわって俗論派が実験を握り、幕府に恭順。 なお、賠償金は幕府が支払い。 ※前月から「第1次長州征討」が行われていました。(池田屋事件→禁門の変→第1次長州征討) |
1865 | 兵庫開港要求事件 →英仏蘭が兵庫沖で示威行動。安政五カ国条約の勅許と、兵庫開港を要求。 安政五カ国条約(日米修好通商条約ほか)の勅許を得る →朝廷の攘夷方針は変更。 |
1866 | 改税約書 パークスら列強は兵庫開港が認められなかった代償に、関税率の引き下げを要求。 →20%平均だった関税率を一律5%に。 ※この翌月から第2次長州征討。(長州軍が勝利。) |
1867 | 兵庫開港勅許 大政奉還 |
<エピローグ>
パーマストン「力強い突きは立派な受けである」
(A vigorous Thrust is a good Party)
<あとがき>
清国が列強と戦ってことごとく敗れたのに対して、日本はことごとく戦争を避けた。ここに幕府のリアリズムを評価する面もある。
ぜひ本書を!!
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