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☞【田中義一、蒋介石、張学良それぞれの思惑】『1928年、張作霖爆殺事件後』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1920年代の中国情勢」です。

昭和史講義、第3章、『北伐から張作霖爆殺事件へ』(家近亮子先生)を参考にさせて頂きました。

張学良(左)と蒋介石(右)

さらっと用語解説

「北伐」

…袁世凱死後、中国は群雄割拠状態となりました。この中で南京を拠点としていた蒋介石が一歩抜け出ます。そして中国再統一に向けて北進しました。満州の張作霖はその討伐の対象です。

「張作霖爆殺事件」

…1928年。軍閥の張作霖は満鉄に並行して鉄道を敷き始めたことで、関東軍により爆殺。首謀者の処置を求める昭和天皇に対して田中義一首相は陸軍を断罪できず、昭和天皇から叱責、のち死亡。

【年表】「辛亥革命(1911年)~袁世凱死去(1916年)」

1911 孫文らによる「辛亥革命」で清朝による中国支配が終わる。(※1)
1912 1912年1月1日、臨時大総統に選出された孫文は「南京」で中華民国の成立を宣言。(※2)
1915 日本は「対華21カ条」を袁世凱に認めさせ、満蒙と山東省の権益を得た。(※3)
1916 袁世凱死去。(※4)

(※1)「辛亥革命」は複雑。

そもそも革命を指導した「中国同盟会」は孫文の興中会(広東)の他、湖南の華興会、浙江・上海の光復会、長江流域の共進会、武昌の文学社らが寄せ集まったものであり、政策的には様々な違いがありました。

これらの会派は華南にあり、革命は「南から北」へ向かいます。

(※2)孫文から袁世凱へ。

中華民国建国時点で溥儀は退位していません。

清国を倒壊させるには北洋軍閥の首領、袁世凱の力が必要でした。

孫文と袁世凱の間で取引が行なわれ、溥儀を退位させる代わりに大総統の座は袁世凱のものとなりました。

孫文は首都を国防上の問題として南京か武昌に移すことを求めましたが、袁世凱はこれを拒否します。

やがて袁世凱は南方の革命政党を弾圧し始め、中国は「北京政府」と南方の「革命政権」に分裂状態となります

(※3)中国国内に第1次世界大戦の余波

中国国内にドイツ領があったために、中国国内も第1次世界大戦の余波を受けることになりました。

日本軍がドイツ領であった山東省を占領しました。こうした中で「対華21か条」は出されました。

コチラも。

(※4)袁世凱死後、群雄割拠状態に。

袁世凱死後も南と北の対立状態は続きます。それどころか北も「直隷派」、「安徽派」に分かれ、さらに張作霖らの「奉天派」と争います。

一方、孫文は北伐を試みようとしますが軍事力不足で断念します。

このような争いが続きます。

【年表】ワシントン会議(1921年)~張作霖爆殺事件(1928年)

1921 ワシントン会議で「9か国条約」が締結。
英米の仲裁により山東省における日本の既得権益はほぼ無効に。駐屯軍は撤兵。(※5)
1924 国民党、共産党との合作。(※6)
1925 孫文死去。「革命いまだならず」(※7)
1926 国民党軍は蒋介石を総司令官に任命して北伐出発。(※8)
1927 漢口事件(※9)、南京事件が相次ぐ。

武漢政府(国民革命政府)から蒋介石が独立して、南京に国民政府を樹立。(※10)

同時期、日本では田中義一内閣が成立。早速、第1次山東出兵が行われる。(※11)

武漢北伐軍・蒋介石の会議で国共合作停止が決定、同時に蒋介石の下野も要請され、蒋介石は下野。(※12)
1928 1月、蒋介石は国民党軍総司令官に復帰。4月に北伐再開。
張作霖軍と北伐軍の争いに先駆けて、日本軍が介入。居留民保護の目的で「第2次山東出兵」が行われた。(※13)

済南は日本がおさえたのち、張作霖と北伐軍は衝突。張作霖大敗。張作霖は奉天に帰る途中の電車で爆殺。(※14)

かくして北伐軍は張作霖不在の北京に無血入城し、北伐の完成を宣言。(※15)

(※5)九カ国条約

ワシントン条約で中国の「領土保全」が確認されました。

表向きは日本が第1次世界大戦で得た山東省の権益は無効となりましたが、鉄道会社と鉱山の経営権は日支合弁で経営権は残っていたため、日本人居留民は1万8000人に増加しました。

(※6)第1次国共合作

自らの軍事力不足を補うために孫文はソ連(=共産党)と提携しました。

(※7)孫文死去・・・

孫文の死後、国民党は共産党との関係を軸として大きく分けて「容共派」と「反共派」に分裂していきます。

(※8)北伐開始

当時、蒋介石は軍学校の校長でした。当面の目標は湖南・湖北省を支配していた呉佩孚(ご はいふ)と福建・浙江省の孫伝芳。

軍閥が列強と結びついていることが諸悪の根源として「反帝国主義」の名目で行われるなど共産主義的影響が強い面もありました。

しかし、共産党員により諸外国施設の破壊、外国人居留民襲撃が横行したことで諸外国との衝突が激しくなり、襲撃を認める武漢政府および共産党勢力(容共派)と蒋介石(反共派)とは次第に対立するのです。

(※9)漢口事件・南京事件

イギリス兵の暴行に抗議した民衆が漢口の租界に乱入。イギリスは中国に譲歩して租界内での司法権、行政権、警察権を中国に返還する決定を行いましたが、逆に大衆を勢いづかせ、南京を占領した国民革命軍は民衆とともに外国領事館、外国人居留民などを襲撃しました。

英米軍が発砲して中国人民衆約2000人が死亡。米国人1名、英国人2名、日本人も1名死亡しました。

(南京事件も同様に中国人が外国人を襲撃)

(※10)蒋介石「南京国民政府」

1927年4月12日、上海クーデターにより共産党勢力を弾圧した蒋介石は武漢政府(武漢へ本拠地移動していた)とも決裂しました。

しかし、軍は蒋介石に忠誠を尽くしていたため、蒋介石に従いました。

一方、武漢政府は軍事力を持っていませんでしたが、独自の北伐を遂行するとして地方の既存の軍隊をそのまま国民革命軍に組み入れました。

(※11)田中義一「山東出兵」

同時に北京の張作霖の情勢も探りました。北伐軍の動向が日本の利権と大きく関連するという判断がそこにはありました。

北伐されては困るのです。一方、蒋介石にとって本当の敵は共産党。

(※12)国共合作正式停止

この会談でコミンテルン顧問のボルディンが解任されソ連へ送還されることが決定したが、武漢政府トップの汪精衛が蒋介石の下野に固執したため、蒋介石は下野せざるを得なくなり、下野しました。その後、日本旅行を行い、妻の宋美齢の母親を訪ねました。

また、民政党浜口雄幸総裁、政友会田中義一首相への訪問も実現しました。

田中との会談で、日本は「張作霖を助けるのではなく、満州の権益が全てである」ことを確認し、共に「反共」を誓ったが、2人の間には意識のずれがあり、それが第2次、第3次山東出兵につながった、といいます。

(※13)北伐再開と第2次山東出兵

蒋介石は日本軍との衝突を避けたが、日本軍は済南城に砲撃を開始。これが済南事件。

♨協力して反共にあたっていれば、良かったのか、どうだったのか。いずれにしても中国はまだ統一されていない状況。

(※14)張作霖大敗、のち爆殺

蒋介石の北伐に対して日本は引き揚げを勧告したが、張作霖は戦闘を選ぶ。大敗した帰路で爆殺された。犯人は河本大作。

「満蒙の諸懸案を解決して、日本人の発展、シナ住民の幸福をもたらし、満蒙を楽土たらしむ為には張作霖殺害より外に策なく」

というが、このままでは蒋介石に吸収されてしまうであろうから張作霖では日本の権益が守れない、というのが本音のよう。

田中首相と関東軍の思惑は異なった。

(※15)北伐完了

この時、すでに張学良と蒋介石の間で和平交渉が成立していたと思われる

張学良の国民政府への参加は、満蒙を切り離すことを企図していた日本(というか関東軍)にとっては危機として映る。

以後、蒋介石は活動を続ける共産党軍、満州における関東軍に悩まされることになる。

【まとめ】

★軍事力不足を補うために孫文はソ連と連携これにより国民党と共産党合同で北伐に向かった

★しかし、共産党軍が外国人を襲撃する姿を目の当たりにした蒋介石は共産党と袂を分かつ。

★蒋介石は田中義一との会談(1927年)で、共に「反共」を誓ったが、2人の間には意識のずれがあり、それが第2次、第3次山東出兵につながった。

★張作霖爆殺の時点ですでに張学良は蒋介石との和平を決めていた?

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