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☞【1939年は世界史的にも非常に重要。】『昭和陸軍の軌跡』(川田稔、2011年、中公新書)【年表後編】

前編(~1937年)はコチラ

1938年

1月16日 近衛声明。「国民政府を対手とせず」と、交渉打ち切り。

※多田駿参謀次長はただ一人打ち切り反対を主張していたが、杉山陸相、近衛首相、広田外相らの強硬論は崩せず。最終的に米内海相が近衛らをサポートして内閣総辞職をちらつかせることで多田も折れた。
3月 ナチス、オーストリア併合
4月 国家総動員法、電力管理法
8月 ドイツから日独伊三国同盟案が提示

ポイントは対ソだけではなく、対英米も含まれていること。ドイツとしては対ソ戦に備えるとともに、アジアに広大な植民地を持つイギリスを日本が背後から牽制するという狙いがあった。ドイツは満州国の承認、中国への武器輸出禁止など、親日政策を打ち出すことで歓心を得ようと試みる。

陸軍はソ連だけを対象としたかったが、ドイツはあくまでも米英も含めることを要望。外務省や海軍は強く反対した

(1月に閣内不一致で総辞職し、平沼騏一郎政権へ。)
9月 ミュンヘン会談

※ひとまず大戦勃発回避。
11月3日 近衛内閣、「東亜新秩序」声明

※第1に、日中戦争の目的は日本、満州、中国による東亜新秩序の建設。第2に、国民政府が従来の反日政策を放棄するなど一定の条件を満たせば(汪兆銘が首班であれば)「新秩序」建設への参加を拒まない、という内容であった。これはワシントン体制の原則を事実上否定するものであった。もっとも、アメリカから日本への輸出額はアメリカから中国への輸出額の7倍であり、アメリカとしては日米和平を望んでいたため、この時点では強い警戒を抱いてはいたものの、戦争を望んでいなかった(この時点での日本の海軍力はアメリカより高かったこともある)。またイギリスは欧州危機に際して日本に妥協的態度を取らざるを得なかった
12月 当分の間、現占領地の治安維持に主眼を置く方針に切り替え

※日本は快進撃を続けたが、既に中国軍の主力は奥地に。日本軍は占領地を増やしても占領地の治安維持に配備するしかできなく、進出しても中国軍は分散退却し、日本軍が原駐地に戻ると帰還するとことの繰り返しであった。(広い中国を制圧するには兵力の絶対量が不足していたのだ。)
12月29日 汪兆銘、重慶脱出

※中国各方面に和平の通電を発したが期待に反して反蒋介石派の軍隊も動かず、同調者は少なかった。日本側の企図は挫折。

★1938年。われわれは結果を知っているからこそ、「何が悪かったのか?」という目で見ることもできるのであるが、この年の「近衛宣言」、「東亜新秩序」宣言は決して良いものであったとは思えない。ただ、この時点でアメリカは警戒心を強く抱いたものの、貿易の観点から戦争は望んでいなかった。

★大見得切った近衛であるが、ドイツからの同盟提示をめぐって閣内不一致となる。対ソ連の他に英米も含めたいドイツと、その案を受け入れたくはないけど受け入れようと考える陸軍に対して、海軍、外務省は強く反対。

1939年

1月 近衛内閣総辞職

※ドイツとの同盟をめぐって閣内不一致となり総辞職。平沼騏一郎政権となる。
4月 ドイツから再度、三国同盟依頼

リッベントロップ外相は日本が同盟に躊躇するならドイツはソ連と不可侵条約を結ぶかもしれないと警告
5月12日 ノモンハン事件(~9月15日停戦)【コチラも:昭和史講義
6月14日 天津英仏租界の封鎖

※当時、英仏租界が日本の北京臨時政府の管理通貨である「連銀券」を使わず、国民政府の「法幣」を使用していた。この「法幣」がポンドとリンクしていたため、英仏租界が日本側による華北経済支配を困難にしていると考えた武藤は天津英仏租界の封鎖を実施した。イギリスは欧州大戦に備えて大幅に譲歩した(7月23日)が、アメリカがバックアップ(7月26日)してイギリスの姿勢も変化。交渉は無期延期となった
7月26日 アメリカ、日米通商条約破棄を通告

※ルーズベルトによる警告。これによりイギリスも強気となったが、以後、日本はイギリスが中国における資源確保と市場支配に対する障害として強く認識されることになったまた、アメリカの「イギリス重視」が明らかになった件でもある。当時、日本は多くの資源をアメリカから輸入するなど日米関係は悪くなかったが、日英関係の悪化が日米関係の悪化につながった。一般にのちの日米戦争は中国市場の争奪をめぐる戦争と思われがちであるが、実際はイギリスとその植民地の帰趨をめぐってはじまったのだ。(1930年代後半までの海軍力は日本がアメリカを上回っており、アメリカとしても日本との衝突は避けたかった。)
8月23日 独ソ不可侵条約締結

※平沼内閣は三国同盟交渉打ち切りを決定して総辞職。
9月1日 ドイツ、ポーランド侵攻
9月3日 英仏がドイツに宣戦布告
9月4日 阿部信行内閣、欧州大戦不介入を表明

※英米協調路線を打ち出すも、物価高騰による不人気、陸軍との軋轢もあり間もなく辞任。陸軍は近衛を推すが、湯浅倉平内大臣ら宮廷グループの推薦で米内内閣誕生へ。
9月30日 武藤章、陸軍省実務トップの軍務局長に就任

※既に課長レベルまでは統制派が優位であったが、武藤の就任と、冨永恭次が参謀本部作戦部長に就任したことで統制派が圧倒的な影響力を持つことに。

★非常に重要なのが1939年。日本はドイツからの同盟案に対しての返答を迷っていたが、ドイツは再度脅迫。「日本が同盟を結ばないのであれば、ソ連と結ぶぞ」と。これをされると、ソ連は西が安泰になるので、東に戦力を集中できる。それであたふたしていたところ、本当に「独ソ不可侵条約」を結んでしまう。「欧州情勢は複雑怪奇」とか言う人が国のトップであったことは残念でもあるが。

★後を継いだ阿部内閣であるが、この時点では英米協調路線。しかし、日中戦争を行っている陸軍としては中国租界問題でイギリスを「敵」として認識しており、それでは困るのであった。阿部の次の米内内閣においても陸軍の方針は変わらず。(※陸軍は「英米可分論」、海軍は「英米不可分論」で英国との戦争は米国との戦争になると認識していた。)

★また、アメリカが「イギリス支援」であることが明確になった年でもある。日米戦争は日英の軋轢から生じたものであることを根本的に押さえておきたい。そのような最中、第2次世界大戦勃発。

1940年

3月 近衛新党結成の動き

※近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧らによるもので、「一国一党」を理想とする武藤もこれに賛同していた。しかし、近衛とその周辺は批判を恐れて腰砕けとなり断念する。
5月 中国駐留軍増派

※日本にとってあくまでも中国は「資源確保」のためであり、対ソ、対米英の世界大戦に向けて、中国駐留軍は徐々に削減していこうと考えていたが、現地の強い要望により増派せざるを得なかった。
6月22日 フランスがドイツに降伏

※武藤らは6月中旬に「総合国策十年計画」をまとめていたが、欧州情勢の変動を受け、7月に新たに「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定。ここではイギリス「だけ」を相手として、アメリカとの戦争は努めて「避ける」方針が書かれた。アメリカは孤立主義もあり、イギリスの植民地のために南方に介入することはないであろうと考えていた。
7月22日 第2次近衛内閣成立

「英米可分論」の陸軍に対して海軍は「対英戦=対米戦」になると考えていた。米内内閣は独伊との軍事同盟に消極的であったがため、武藤ら陸軍中央は畑陸相を辞任させ、内閣総辞職に追い込んだ。統制派最年長の東条英機が陸相に。外相は反英米、親独の松岡洋右。
9月23日 日本軍部隊が独断で北部仏印進駐

※援蒋ルート遮断目的で協定交渉中であったのだが、もともと強硬派であった冨永作戦部長は制止しなかったために生じた。これにより冨永作戦部長は更迭され、10月10日、田中新一が作戦部長になる。以後、陸軍は武藤と田中により牽引されることになるが、武藤ら陸軍省軍務局と田中ら参謀本部作戦部は世界戦略をめぐりしばしば対立することになる
9月27日 日独伊三国同盟締結

なお、これは陸軍がリードしたものではなく、近衛首相支持のもと、松岡洋右外相主導で行われた。武藤らとしても、南方進出に際して独伊の助けが要るとして容認。日本が中国を制覇すれば、次に向かうと思われる東南アジアのイギリス領はすべて日本のものになる可能性がある。アメリカはドイツのイギリス攻撃が本格化すると日本を中国にくぎ付けにするために重慶政府の援助を行った。アメリカが日独伊三国同盟の締結に神経をとがらせたのは、そのような背景があった
10月10日 田中新一、作戦部長に就任。

※「シナ事変処理要綱」起案。シナ事変の単独解決の望みは絶たれたので、大東亜新秩序を建設することで二次的に解決しようと考えた。これが11月13日の御前会議で正式決定。南方政策としては仏印・タイを第1段階とした。
10月12日 近衛内閣、大政翼賛会設立

※新体制運動は最終的に政治的指導力をもたない単なる精神運動組織としての大政翼賛会となって終息した。武藤らの望んだ「強固なる政治指導力」の創出は実現し得なかった

★1940年。日独伊三国同盟締結。同盟打診があってから長らく成立しなかったが、ドイツの快進撃もあってか。なお、これは陸軍主導ではなく、親独派の松岡洋右主導である。

★陸軍内では武藤章と田中新一の戦略方針が異なるため主導権争いが開始。

★近衛の大政翼賛会が成立したが、もともとは「強固なる政治指導力」をもった近衛新党が武藤らの願いでもあった。大政翼賛会の実質は、政治的指導力など持たない単なる精神運動組織だったのである。

1941年

2月 陸軍省、「対南方施策要綱」を作成、海軍に提示

※これは「英米可分論」に立ち、戦争相手を英蘭に限定するとしていたものであったが、海軍は「英米不可分」として同意せず。(最終的に6月6日、「英米不可分論」の立場で落ち着く。)また、南方武力行使は「自存自衛」の場合のみと限定。これは、南方英領への攻撃はただちに対米戦争を意味すると判断したためである。「自存自衛」とは、「対日禁輸措置」を受けるか、国防上容認できない軍事的対日包囲態勢が敷かれた時に限る、とした。(すでにアメリカは屑鉄と航空用ガソリンは対日禁輸していた。)アメリカにとって、イギリスが負けるとドイツが欧州を制覇することになりドイツがアメリカを脅かすとしてイギリスを支援
4月13日 日ソ中立条約調印コチラも:昭和史講義

※ドイツ訪問後に立ち寄ったモスクワで松岡外相が行う。
4月18日 野村吉三郎駐米大使から「日米諒解案」が打電される

※「対南方施策要綱」陸海軍案作成の翌日、日ソ中立条約から5日後、独ソ開戦の2か月前であった。近衛も武藤も非常に歓迎。これで(アメリカと戦争せずに)救われた、と武藤も考えていた。一方、留守にしていた松岡は自分が感知しないところでまとめられたことに不快感を示し、5月12日、独自の修正案を作成し提示。(三国同盟維持など、より強硬なものであった。)
6月12日 アメリカから修正案

※東亜新秩序の否定などが盛り込まれており、日米諒解案とのギャップに驚く。松岡の更迭も暗に要求。
6月22日 独ソ戦開始

※この2週間前、ドイツ大使大島浩からは「開戦は確実」との情報があった。
7月16日 第2次近衛内閣総辞職

※松岡外相だけ入れ替えて第3次近衛内閣(18日~)。

このあたりのいきさつには米国だけではなく昭和天皇も絡む。
7月25日 在米日本資産凍結

※26日に在英日本資産、27日に在蘭日本資産が凍結された。横浜正金銀行ニューヨーク支店の戦略物資購入資金:1億4000万ドルも凍結となった。
7月28日 南部仏印進駐

※もし米英が南部仏印を確保すれば日本の国防計画は南から崩れていくので、南は「必然」と考えていた。(東南アジアのゴム、錫など米英が必要としているものもあったため先手をうつ可能性は十分考えられた。)日仏間の協定成立により武力行使を伴わない(軍事的圧力は背景にあったものの)平和進駐となったが、これにより英領シンガポールも射程圏内、オランダ領インドネシアにもにらみをきかせることとなった。一方、武藤の発言から南部仏印進駐は田中らが「しゃにむにソ連にとびかかりそうなのでそれを防ぐのが狙い」と話していた。しかし、田中にとっては仏印との軍事衝突は想定内であり、武藤が思うほど対ソ戦を阻止する力にはなっていなかった。アメリカにも対日強硬派と知日派に分かれていて、強硬にいけば日本は折れるとする側と、そんなことをしたら開戦になるという側で論争が繰り広げられた。アメリカは欧州第一主義をとっており、日本との争いを避ける可能性もあったが強硬意見が採用された。これはもしソ連がドイツに敗れ、イギリスもドイツに敗れたらアメリカは欧州での足掛かりを失ううえに、日本とドイツに挟撃されるという最悪のシナリオを恐れていたためで、関特演には強い危機感を抱いていた。(つまりはアメリカにとってソ連の崩壊を止めることが対日開戦のリスクより重視された。)

よって、南部仏印進駐は、日本側にとっても対ソ開戦を避けるためのものであったし、南部仏印進駐に対するアメリカの対日石油全面禁輸も日本の対ソ開戦を避けるためのものであった。(対ソ戦による、イギリス崩壊を避けるため)結果的に、日本の対ソ開戦は対日石油全面禁輸によって避けられた。

以後も、「対米戦回避」をめざす武藤と、「対米開戦」を主張する田中で激しく衝突が起きることになる。
8月1日 アメリカが石油の対日全面禁輸
8月8日 近衛首相、ルーズヴェルトに日米首脳会談提案
8月9日 対ソ戦実行断念
8月14日 大西洋憲章(英米)

※ルーズベルトとチャーチルによる。9月にはソ連もこの共同宣言に加わる。ナチへの対抗、主権と自治を強奪されたものへの返還などが含まれていた。この時期、日本は米国に会談を申し込んでいるが、ハル4原則は譲らないとして不成立。
9月2日 陸海軍部局長会議で、「帝国国策遂行要領」が決定

※外交手段で要求貫徹できなければ対米英開戦を決意するとのこと。6日の御前会議で承認。
10月11日 野村駐米大使より日米交渉不可能と通告

※武藤らは交渉継続に動いていたが諦め。ここに至るまで強硬派である田中の圧力は凄まじかった。
10月12日 五相会議

※近衛首相、東条陸相、及川海相、豊田外相、鈴木貞一企画院総裁。近衛「戦争は私は自信がない。自信ある人にやってもらわねばならぬ」10月16日、総辞職。東条首相に。御前会議内容は白紙に。
11月5日 御前会議

※交渉不成立なら武力発動とした。
11月26日 ハル・ノート提示

※幣原元外相案(いったん南進前まで戻すという案)は却下、中国・仏印からの無条件撤退、三国同盟からの離脱などを求めるもの。
12月1日 御前会議

※対米英蘭開戦決定
12月8日 真珠湾攻撃、英領マレー半島上陸、太平洋戦争勃発。
12月10日 英戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス撃沈

※英国東洋艦隊大打撃

<独ソ戦へのそれぞれの対応>

田中新一(陸軍中央) 武藤章(軍務局) 海軍 松岡洋右(外務省)
対ソ戦へ意欲 静観 対英米戦も辞さず 即座にソ連攻撃

※近衛は松岡を排除する形で第3次近衛内閣を組織。松岡は独自の政治勢力をもっておらず、以後、政治的影響力は減衰。

※対ソ戦準備が認められて、田中らは関東軍特種演習(関特演)。

★1941年。いよいよ日米開戦なのであるが、これは決して望まれた戦争ではないし、まともな学者なら「回避できた」と考えているという。順を追うと、南部仏印進駐(7月)→対日石油全面禁輸(8月)の前後で何とか開戦回避の方向を探るも、対米英蘭開戦決定(12月)。真珠湾攻撃同日に英領マレー半島に上陸していることも押さえておきたい。

★日ソ中立条約(4月)。松岡的には「日独伊ソ」という「幻の四国同盟」で英米と決戦、と考えていたのかも知れないが、独ソ戦開始(6月)で全てがパー。

★南部仏印進駐は、田中らがソ連に食いつこうとするのを防ぐためであったという武藤、それに対するアメリカの対日石油禁輸は日本がソ連に向かうのを阻止するためであったアメリカ。やはり日米が戦う必要はなかったし、日本もソ連に滅んでもらっては困ると言うアメリカの意図を読み切れなかった。

1942年

1月2日 英領西ボルネオほぼ制圧。米領マニラも陥落。
2月 蘭印有数の油田地帯パレンバンを確保
2月15日 シンガポール占領
3月5日 蘭印首都バタビアを占領、7日には蘭印軍降伏。
3月7日 大本営政府連絡会議

※陸軍は戦略的守勢に転じ、防備強化と資源開発を主張も、海軍は早期決戦、早期講和論に傾斜。陸海軍の考えが分かれたままで会議が開始となったが、両論を取り入れることに。
3月8日 ビルマ首都ラングーン占領
4月8日 武藤軍務局長が突然解任、佐藤賢了(東条に近い)が後任。

※武藤は長期戦ではもっと広範囲な国民層に基礎をもった別の内閣でやるべきと考えていて岡田啓介元首相に協力を要請していたが、これが憲兵隊に察知された。東条は満州時代から憲兵隊との関係が深くなっており、憲兵隊を政治にも利用していた。
4月 バターン半島に後退して抗戦した在フィリピン米軍も降伏
5月 ビルマ全域制圧
6月5日 ミッドウェー海戦

※真珠湾攻撃から逃れた米空母艦載機により日本の最新鋭主力空母4隻が撃沈。これにより海軍の攻勢作戦も陸軍の主張する長期自給体制の維持も困難に。
6月 スターリングラード攻防戦開始

※決定的敗北。独ソ戦のドイツ勝利はほぼなくなる。同時にソ連打倒→イギリス打倒がなくなる。
12月6日 田中新一、ガダルカナル島作戦をめぐり東条と激論

※暴言も。ガダルカナル島攻防戦で大損害を受けていたが、ここを失えばそこを足場に南方占領地と本土の輸送路を遮断され、戦争継続できなくなるとして田中は一大戦力を投入して奪回すべきと主張。東条は経済的困難から受け入れず。
12月7日 田中新一、作戦部長罷免

※武藤、田中にかわって新たな戦略を構想できる有力な幕僚は現れず、以後、東条はこれまでの構想に従って場当たり的な対処に終始。
12月31日 ガダルカナル島撤退決定

※これ以降、アメリカの反攻は本格化。事実上、これが最大の転換点となった。翌年2月1日より撤退開始。

★東条内閣のもと開戦したが、武藤も田中も更迭。最初は快進撃を見せるも、徐々に国力の差が。

1943年~1945年

1943年9月8日 イタリア降伏

※日本はドイツの目をイギリスに向けさせようと独ソ調停を試みるが、独ソともに拒否される。
1944年7月7日 絶対国防圏のサイパン陥落

※これにより日本はアメリカの長距離爆撃機の空爆範囲内に。本土空襲開始。東条内閣総辞職に追い込まれる(→小磯国昭)。すでに日本の勝ち目はなく、非統制派などは講和の道を探っていたが、陸軍主流の統制派は継続方針を変えなかった。太平洋戦争中の日本人兵士戦死者230万、民間人死者50万人のほとんどはこのサイパン陥落以後に犠牲となったのである。
1945年8月 ポツダム宣言受諾。

★昭和の政党政治は脆弱なもので、政党政治崩壊後は、軍部が明確な国家構想をもたないままテロと恫喝で権力を掌握したと考えられがちであるが、近年の研究では政党政治はかなり強固なもので安定性を誇っていたことが証明されてきた。それに対抗できたのは永田鉄山を中心とする一夕会で、彼らの周到な準備と構想があったからこそ実現されたのだ。

★また、陸軍は戦争終結の見通しのないまま対米戦争に突入したと考えられがちであるが、田中や武藤は戦争終結方針を考え、東条もそれを了承していた。

★日米戦争は中国市場の争奪をめぐる戦争とも思われがちであるが、それは正確ではない。(日中戦争が原因でアメリカと対立したと書かれる書籍が多いが)日中戦争の解決が困難で、南方進出したのではなく、別の要因(主にはイギリスをめぐるもの)によるものであったのだ

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