こんにちは。
今回ご紹介しますのは、引き続き「摂関政治の実像」についてです。
「摂関が国政を牛耳った」というイメージがありましたが、そのレベルまでは到達していなかった、というのが現在の考え方のようです。
【前編はコチラ】
摂関は国政を私物化したのか?
「栄華物語」などの文学作品などから、摂関家は権勢を欲しいままにしていた印象がもたれますが、
国政を私物化したというレベルには至っていない、
とするのが現在の結論です。
摂関期においても国政の中心は依然として朝廷にあり、国政は太政官を中心に運営されておりました。
蔵人と太政官
しかし、太政官の地位は相対的に低下していたというのは事実です。
10世紀以降、天皇家の家産機構が拡大し、蔵人所召物という国家運営に必要な料物を蔵人所が確保する制度が設けられるなど、国政における蔵人の比重が高まりました。
そのため、相対的に太政官の地位が低下したのです。
道長は「左大臣」と「蔵人所別当」を兼ねることで「官方(太政官)」と「蔵人方」の官僚両方をおさえようとしたと考えられています。
平安時代、外祖父として摂関に就任したのはわずか3人
当時、母方の家庭で養育したことから天皇の外祖父(母方の祖父)の影響力というものは強いと言われております。
しかし、平安時代400年の間に外祖父として摂関に就任した例は3例しかありません。
①清和天皇時代の良房。
②一条天皇時代の兼家。
③後一条天皇時代の道長
もっとも、後一条、後朱雀、後冷泉の3代51年にわたり摂関の地位にあった頼通は「おじ」でした。
「おじ」というケースは多かったのですが、外戚でないものが摂関の地位に就くこともありました。
また、基経のように外戚関係がないにも関わらず大きな権力を持ったパターンもあります。
とはいえ、やはり外戚関係は大事で、外戚関係がなければ摂関に就いても大きな影響力をもつことはできなかったと考えられております。(実頼、頼忠など)
国母(天皇の母親)も大事。
摂政・関白だけに目が行きがちであるが、当時、国母の影響力は絶大でした。
たとえば、頼通が地位を確保できたことは姉の彰子のバックアップが大きかったのです。
さらに彰子は「母后令旨」を発給して重要事項を決定することもしばしあったのです。
親政と摂関政治は対立するものではない
摂関は、天皇の「ミウチ」により構成されることが多かったことからも、
天皇親政と摂関政治を対立的にとらえる見方は誤りです。
対立という点において三条天皇と道長の対立は有名ですが、これは、親政と摂関政治をめぐる対立ではありませんでした。
摂関政治が安定化を生む
奈良時代の皇統不足を見て、光仁天皇・桓武天皇は皇統を複数に分けることを考えました。
しかし、「承和の変」などの争いが生じたため、皇統は再び一本化されました。
すると今度は清和天皇という幼帝の出現や、陽成天皇という素行に問題のある天皇の即位につながってしまうのです。
そのため、「誰が天皇でも支障がないようなシステム」として、摂政・関白・内覧という職掌が創出されたと考えられます。
摂関政治の確立により、朝廷の政治・経済は安定し、宮廷文化が花開いていくのです。
「源氏物語」、「枕草子」などが摂関政治の最盛期に生まれたことは偶然ではありません。
(wikipediaより↑)道長の日記である「御堂関白記」。「御堂関白」という名前から道長は「関白」なのかと思いきや、「内覧」である。ただし、「内覧」は「准関白」であることから、「関白」とも呼ばれていたのであろう。
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