~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「倭の大王と地方豪族」です。

「古代史講義(ちくま新書)」第2講、執筆されましたのは四天王寺大学人文社会学部教授、須原祥二先生です。

大きく分けますと、次のようになります。

①4世紀・・・朝鮮半島情勢に伴い王権変容
②5世紀・・・倭の五王の時代
③6世紀・・・継体天皇、欽明天皇の時代

【1a】3-4世紀の古墳とヤマト政権

「初期ヤマト政権」

列島各地の地域の王たちが結集したものです。

最高首長には「狭義のヤマト」である奈良盆地の首長が推戴されました。

「オオヤマト古墳群」

歴代盟主の墓は奈良盆地にあり、「オオヤマト古墳群」と呼ばれます。

箸墓古墳、西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳、行燈山古墳(崇神天皇?)、渋谷向山古墳(景行天皇?)などがそれにあたります。

「王家=直系という考えは古い?」

初期ヤマト政権の「盟主」は複数の勢力から出ていた可能性が指摘されています。

ちなみに、初期高句麗では5つの部族から交互に王が輩出されていました。

初期新羅では2人の王が役割を分担して併存していました。

初期段階の王位のあり方はさまざまな想定を行うべきでしょう。

「百舌古墳群」と「古市古墳群」

4世紀中ごろに建てられたとされるのが、渋谷向山古墳です。

この時期、佐紀古墳群の宝来山古墳(垂仁天皇?)など、盟主墓に匹敵する大きさの古墳が同時並行的に造られ始めました。

大和の外となると、

和泉の「百舌古墳群」(代表:大仙稜古墳:486m)と、

河内の「古市古墳群」(代表:誉田御廟山古墳:こんだごびょうやまこふん, 425m)

が挙げられ、新たな盟主が出現したとも考えらます。

しかし、おそらくは朝鮮半島情勢に対応すべく、役割の一部を海側に移動したと考えられております。

【1b】4世紀の朝鮮半島情勢とヤマト政権の変容

313年

高句麗の圧力により、これまで倭国と中国王朝をつなぐ役割をしていた楽浪郡と帯方郡が消滅しました。

ちなみに中国では五胡十六国時代という群雄割拠の時代でした(439年、北魏が華北統一)。

高句麗vs百済

朝鮮半島で高句麗と百済は激しい軍事衝突を繰り返しておりました。

371年の戦いでは高句麗王が戦死。

高句麗が華北王朝と朝貢関係を結ぶ一方、百済は372年から南朝の諸王朝と朝貢関係を結びます。

倭国は百済と連携

倭国は百済側につきます。

これには、鉄を得るという目的もあったと推測されております。

369年あるいは372年に、百済王から「石上七支刀」が贈られました。

391年

高句麗で「好太王」が就任します

ちなみに、「好太王碑」には百済軍や倭国軍と何度も戦い、これを打ち破ったことが記されています。

【2】5世紀、大王権力の確立

5世紀前半が超巨大前方後円墳のピーク

4世紀末から5世紀中ごろが超巨大前方後円墳のピークとなります

大仙稜古墳、誉田御廟山古墳がそれにあたります。

この時期、権力を墳墓に投影しようと言う意思が際立っています。

そして、5世紀中ごろ以降になると、巨大前方後円墳はその数を減らします。

ワカタケル王(雄略天皇)

活躍時期は5世紀後半と考えられております。

「万葉集」の冒頭歌も彼で、「時代を画する天皇」と認識されています。

この頃までには大王権力は確立されていたことがうかがえます。

「倭の五王」の5番目で、稲荷山古墳(埼玉県)出土鉄剣、江田船山古墳(熊本県)出土大刀にその銘文が刻まれます。

5世紀前半の地方古墳

瀬戸内航路の要衝である吉備地方の中心である岡山県南部には造山古墳(350m)、作山古墳(286m)などが建てられました。

いずれも「つくりやま古墳」のため、「ゾウザン」、「サクザン」と呼び分けられるのが慣例です。

吉備では地元豪族の吉備氏が雄略天皇没後の勢力争いに敗れ、所領を失ったという伝承があります。(星川皇子の乱)

関東地方は群馬県の太田天神山古墳(210m)、

九州地方では宮崎県の女狭穂塚古墳(めさほづかこふん、177m)が、

最大のものです。

しかし、5世紀後半には地方も古墳の数、大きさとも縮小します

この時期、ヤマト地方に対して徐々に従属的な関係となっていったのはないかと考えられております。

【3a】諸制度の整備

6世紀には氏姓制度、部民(べみん)制、屯倉(みやけ)制、国造(こくぞう)制など、ヤマト政権の政治制度が整えられていきました。

しかし、いつからそれが始まったのかは、はっきりしません。

古墳の規模は縮小を続け、畿内では各地で「群集墳」が営まれはじめました。

ここには技術統轄者、事務官僚者ら小豪族が埋葬されました。

【3b】オホド大王(継体天皇)の即位

越(福井県)から迎えられた継体天皇の時代はまだ王権が不安定だったと考えられております。

母方が旧来の大王の血を引く欽明天皇が長期政権を樹立することで王権は安定したと考えられております。

6世紀の地方

磐井の乱(527年)勃発。

以後、地方では大王の直轄領である「屯倉」の設置が本格化しました。

しかし、国造はじめ、地元の首長による自立性は保たれていたと考えられております。

ヤマト朝廷が彼らの支配する民衆にも直接把握を試みるのは7世紀中ごろです。

朝鮮半島におけるヤマト政権勢力が後退

この時期、急速に新羅が台頭したことで、加耶地方の小国は新羅への帰属を深めていきました。

また、5世紀後半に高句麗に敗れて南遷した百済は南に活路を求めていました。

そこで、加耶地域の併呑承認を倭国に求めています。

562年、加耶諸国消滅します。

新羅急成長の背景

新羅の急成長の原因として、法興王(在位514-540)が梁から法整備を学び、仏教を基軸として国民をまとめたことが指摘されております。

そして、次の真興王(在位540-576)の時代に高句麗、百済を破り朝鮮半島西岸まで到達しました。

570年、ヤマトと高句麗が国交樹立

ヤマトと高句麗は長期に渡り敵対していましたが、570年、国交樹立しました。

これには急成長した新羅への対抗の意味合いが強いです。

さらにヤマトは仏教を取り入れて国を治めようとします。

ただ、本格的な仏教の受容は推古朝の時代となります。

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