~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「古代史講義(ちくま新書)」第5章、「平城京の実像」です。

執筆されたのは奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員、馬場基先生。

藤原京に代わって平城京を作った1番の要因は「儀礼空間としてのアップグレード」と述べられております。

藤原京は、

①天子南面が不徹底
②都の標高が低い
③朱雀大路の幅が他と同規模

などの問題を有していました。

平城京はいきなりできたわけではない

教科書からは平城京がいきなり誕生したような印象を受けます。

しかし、実は707年から計画されていました。

そして、710年の時点では未完成でしたが、未完成のまま遷都しています。

それほど遷都したかったんですねー

この地域は古くからの交通の要衝で、大阪湾にも通じる道を有していたと考えられています。

wikipedia/大和古道

平城京の北には古墳時代中期の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群も存在。

南北に西から下ツ道、中ツ道、上ツ道とあり、下ツ道が平城京のメインストリートにあたります。

  1. 702年 遣唐使再開

    707年2月 文武天皇の時代に遷都計画開始

    707年7月 文武天皇死去、元明天皇即位

    710年 遷都開始

    715年 大極殿完成

興福寺は盛り土だった。

また、平城京といえば、周辺の寺がよく試験に出ます。

こんなの覚える必要があるのか…と言いたいところなんですがね。

ただ、興福寺は最初に覚えちゃって良いのではないのでしょうか。

「平城京跡歴史公園HP」より。( https://www.heijo-park.go.jp/ )

と申しますのも、興福寺は「藤原家の氏寺」です。

そして、平城京内でも最も標高が高い場所に造られたと言われております。

近年の調査でもかなり大規模な「盛り土」がなされたということが判明しました。

藤原不比等の当時の力を考えれば納得かな。

ちなみに、興福寺以外にも大安寺、薬師寺、元興寺なども並行して工事していたと考えられています。

計画から3年で遷都できたことは、むしろ早いと見るべきなんですって。

平城京

1つの区画が「坊」、坊が東西に連なった列が「条」。

東西が八坊(+五条以北で三坊)、南北十一条からなります。

東の張り出し部分がどうしてあるかはわかっていないそうです。

人口は5万人~20万人と推定に幅があります。

官人だけで1万人と試算されています。

奈良時代前半は第1次大極殿がランドマークでしたが、奈良時代後半は東大寺大仏殿がランドマークとなっていくそうです。

まとめ

710年、藤原京から平城京へアップデート!(北上する。)

藤原氏の氏寺「興福寺」(東の張り出し部分)は盛り土で一番高くなっている!

次章は「奈良時代の争乱」