~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「866年、応天門の変」です。

一般的には藤原氏の他氏排斥事件の1つとして数えられることが多いのですが、実はもっと深い話でした。

この事件は、古代史研究上では、「ヤマト政権以来の豪族没落の契機、摂政制の成立過程の第一段階」として位置づけられており、

なお主要閣僚メンバーが2つに分裂し、その双方とも力を失う一方で、藤原良房は摂政、その養子の基経は中納言に昇進したというのがポイントだそうです。

以下、『古代史講義戦乱篇』(富山大学人文学部教授、鈴木景二先生)を参考にさせて頂きました。

contents

①応天門の変まで(今回)
②応天門の変
③応天門の変の影響

①応天門の変まで

政情不安

864年に富士山、阿蘇山が噴火しました(貞観大噴火)。

富士山の噴火活動はその後2年も続きました。

(ちなみにその5年後の869年、奥羽では「貞観地震」が起きて、陸奥国多賀城までが津波の被害)

飢饉・疫病も発生しており、政情不安となっていたことから、当時の政府(藤原良房が中心)は「集会禁止令」を発します。

wikipediaより。「富士の樹海」はこの時に生じたそうです。次の大噴火は1707年の「宝永大噴火」。

超・略年表

810平城太上天皇の変
→嵯峨天皇が勝利。

★嵯峨天皇は823年、異母弟の淳和天皇に譲位。
★上皇は政治に関与しないことを自ら宮中を退出するという行動で示した。
★淳和天皇は嵯峨天皇の息子を皇太子に指名。皇太子が仁明天皇として即位すると、淳和天皇の息子が皇太子(恒貞親王)に選ばれた。(両統迭立)
★両統迭立はそれぞれに仕える貴族官人の分化を生んだ。
★嵯峨上皇の死、淳和上皇の死で恒貞親王は後ろ盾を失った。
842承和の変
→恒貞親王が廃太子。道康親王が皇太子に。(のちの文徳天皇。)

★恒貞親王に仕える伴健岑は橘逸勢とともに恒貞親王を東国に逃がそうと考えたが、発覚した。
★恒貞親王は廃太子となり、仁明天皇の息子である(藤原良房の甥でもある)道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子となった(→850年即位)。
★藤原良房による最初の他氏排斥事件と考えられる。伴氏、橘氏が流罪に。
851立坊(皇太子)問題
→のちの清和天皇が生後8ヶ月で皇太子に就任。

★4男であったが、外祖父が藤原良房であった。
★文徳天皇は第1皇子の惟喬親王を皇太子にしたかったが、源信により反対された。
★文徳天皇は清和天皇が大きくなるまで惟喬親王を天皇にするという両統迭立を考えていた。
★惟喬親王の母は紀氏で藤原氏に比べると弱かった。
★この一件により皇統は嵯峨天皇直系の父子に統一され、藤原良房と嵯峨源氏が閣僚を占めた。(857年、太政大臣に藤原良房、左大臣に嵯峨天皇皇子の源信、右大臣に良房弟の藤原良相。)
858文徳天皇崩御
→藤原氏を外戚にもつ清和天皇(9歳)が即位。

★この時、伴善男は正三位、参議。源氏、藤原氏以外の閣僚メンバーは他に諸王、清原氏、安倍氏。
★「応天門の変」の時期には藤原氏、源氏が中心となる。
866応天門が炎上

事件の史料

★基本的な史料は菅原道真や藤原時平が編纂した「日本三代実録」(901)。事件からまだ35年しか経っていないので、信憑性が高い。

★「日本三代実録」のうち、「伴善男伝」、「紀夏井伝」、「源信(みなもとまこと)甍伝」、「清和上皇崩伝」が主な文献。

★「吏部王記(りほうおうき)」という藤原実頼が重明親王(醍醐天皇皇子)に語った忠平(基経の子)から聞いた話も興味深い史料である。

事件の中心人物:伴善男

★生まれつき聡明であったが、性格は残忍苛酷。ある事件について手続き上の問題を徹底的に糾弾して多くの関係者が処分された。

★朝廷の制度を詳しく究めていて、質問をすると答えられないことがなかった。

★仁明天皇に気に入られて出世。

★859年には大臣に次ぐ大納言となったが、この頃から左大臣源信と不和になった。

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