~只今、全面改訂中~

☞【応仁の乱を最速で!】『戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本』 (水野大樹、2017年)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本』 (水野大樹、2017年、じっぴコンパクト新書)です。

「応仁の乱」といえば、呉座勇一先生の大ヒット作が記憶に新しいところですが、

「1日で把握したい!」というセッカチな方は是非、本書がオススメ。

小学生の頃、「応仁の乱」は「将軍家の跡目争い」が原因と習った記憶がありますが、

今の時代、そんなこと言ったら笑われます。

元々、足利義視は東軍の総大将であり、義視を中継ぎととして「義視」⇒「義尚」と継承することは日野富子も細川勝元も山名宗全も賛成でした。

じゃあ、何なんだと言いますと、

「応仁の乱」=「細川政権に対するクーデター」です。

1390年の「土岐康行の乱」、1392年の「明徳の乱(山名氏)」、1399年の「応永の乱(大内氏)」を経ての「応仁の乱」なんですね。

結果的には細川政権が存続したことから、クーデターは「失敗」ですが、細川家は大打撃を受けました。

また、有力守護が在京して幕政に参加するという体制は崩壊。荘園制の解体が進んだこともポイントです。

以下、順を追ってみましょう。

1441年、嘉吉の変。 (→細川持之と畠山持国の二頭状態に)

「将軍、犬死に」で有名な嘉吉の変で斬殺された6代将軍・義教は家督相続も決定するような強い将軍でした。

しかし、変以降は、家督候補者が二派に分かれて激しく争うことが一般化しました。

候補者らは家督争いを有利に進めるために幕政の中核にいる管領家(斯波・細川・畠山)と結びつきを求めました。

斯波氏は相次ぐ惣領の早世で弱体化していたので、実質、管領家とは細川と畠山の二家

つまり、幕政は<細川持之・勝元>vs<畠山持国>、各守護家でも細川派vs畠山派となることが常となりました。

義満時代は派閥抗争よりも「対南朝」を優先するという合意があったけど、南北朝合一(1392年)によりその方針は崩れちゃってねー。

1449年、義政元服。 (→畠山持国支援)

7代将軍・義勝を経て、弟の義政が8代将軍に就任します。

1449年、元服し、正式な将軍となりましたが、義政は3、4年で人事、政策をころころ変えたため、混乱に拍車がかかってしまいます。

義政というと、政務そっちのけで銀閣寺に佇んでるイメージがあるかも知れないけど、元々は積極的に政務に関わったタイプの将軍です。

また、義政は、畠山持国を支援しました。

1455年、畠山持国死亡。 (→細川勝元vs伊勢貞親)

しかし、畠山持国は嫡男がいませんでした。

そして、彼の死後、お家騒動で畠山家が弱体化します。(最終的に畠山義就と畠山政長の争いになります。)

義政は細川勝元との関係改善を行うとともに、「側近勢力」の育成を進めるべく、伊勢貞親のバックアップを行いました。

すると、今度は管領家・細川勝元と伊勢貞親の権力闘争が激化します。

この「伊勢貞親」というのが食わせ者なんですが、そりゃそうなるでしょ。

この頃になると武士たちは将軍に奉仕し歓心を買うよりも、在国することにメリットを見出しておりました。

そのため、各地で近隣武士間の争いが発生しますが、応仁の乱にはこうした状況も伏在していました。

1466年、文正の政変。 (細川勝元・山名宗全vs伊勢貞親)

伊勢貞親は、義政の父親代わりのような役目をしていました。

そして、義政に長男・義尚が誕生すると、義尚の養育係にもなります。

ただ、この頃、すでに義政の次の将軍は義政の弟・義視に決定していたため、伊勢貞親は足利義視に謀反の罪を着せて抹殺しようとしました。

しかし、細川勝元・山名宗全ら諸大名の反撃があり、伊勢貞親は失脚します。(これを「文正の政変」と呼びます)

同時に義政の側近グループも失脚したため、足利義政は手足をもがれた格好となり、以後、政務への関心を失っていきます。

この頃は反・伊勢貞親で、山名氏も細川氏と共闘。

1467年、応仁の乱勃発。 (細川勝元・畠山政長vs山名宗全・畠山義就)

ただ、乱の直接的な要因は1467年正月の義政の決定でした。

義政は畠山政長(細川方)を畠山氏惣領から降ろし、畠山義就(山名方)を新惣領に認定しました。

これに抗議して政長が管領職を降りると後任に山名宗全娘婿の斯波義廉を据えました。

その件に対して細川勝元が反撃に出たのが「応仁の乱」の発端です。

裏で糸を引いているのは、山名宗全。

かつては11カ国を所領していた山名氏は「明徳の乱」(1392年)で叩かれ3国となっていましたが、「応永の乱」と「大内盛見討伐」、「嘉吉の変」で再浮上していました。

しかし、山名家は、「旧南朝方」出身であったため、「反主流派」でした。

いつまで経っても「主流派」にはなれない山名宗全は一族の娘たちを大内氏や細川氏の養女とすることで幕府の「対山名シフト」を無効化するとともに、

室町幕府内の序列をひっくり返そうとしたのです。

ちなみに、近年の家永氏の研究によると日野富子と山名宗全の提携は後世の軍記物「応仁記」の創作であり、応仁の乱と将軍後継問題は無関係であるとされております。

1468年、義視が西軍に。(伊勢貞親vs足利義視)

乱がはじまると、義政が伊勢貞親を呼び戻します。

1度は自分を殺そうとした伊勢貞親の復権に対して細川方(体制派)であった義視が激怒して、西軍に身を投じます

このあたりからややこしくなりますね…

これで西軍も大義名分を確保しました。

結果的に、2つの幕府が存在することになり、西幕府も独自に守護の任命を行いはじめます

1473年、山名宗全、細川勝元が相次いで病死。

長引く戦いの中、西軍、東軍ともにTOPが病死します。

後継者の山名政豊、細川政元は諸将の同意を得ずに単独講和を結びましたが、戦乱はその後も続きます。

応仁の乱の最中、「土一揆」は「姿を消した」と言うより、「土一揆の武力が足軽として諸大名に吸収」されていました。

そして、もはや、足軽の無軌道な行動を諸大名も統制できなくなっていたのです

1477年、西軍が解散。

いろいろあってついに西軍は解散となり、畠山義就、大内正弘は下国します。

1485年、山城国一揆。

しかし、畠山政長(東軍)、畠山義就(西軍)の両畠山氏の争いは場所を変えながらもまだ続いていました。

両者の争いは18年にも及んでおります。

そして、これを止めたのは南山城国の国人でした。つまり、守護を地元の武士が追い払ったのです

新たな動きとして守護軍から独立した村の軍事組織が成立していたのです。

その後、明応の政変(1493年)で細川政元は将軍の首をすげ替えるなどを起こしましたが、永正の錯乱(1507年)で家臣により暗殺されます。

そのあと細川氏の家督争いなどをめぐって混乱が起き、細川氏は完全に弱体化。実力を備えた戦国武将たちの時代につながっていくのです。

書籍はコチラ↓

戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本 (じっぴコンパクト新書) [ 水野大樹 ]価格:864円
(2019/7/11 06:36時点)
感想(0件)

電子書籍

戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本【電子書籍】[ 水野大樹 ]価格:778円
(2019/7/11 06:37時点)
感想(0件)