~只今、全面改訂中~

☞【宇垣首相が実現していれば太平洋戦争は避けられた??】『§1-1.派閥抗争が改革をつぶした(宇垣一成編)』

★宇垣一成も、「アンチ宇垣派」である永田鉄山、小畑敏四郎らも、「軍の近代化」を目指すという点では一緒だったが、「長州閥or反長州閥」という派閥抗争により軍の近代化は思うように進まなかった。

★大正14年に行った「宇垣軍縮」は現在では評価されているが、陸軍の反発を一身に受けたため、以後、何度も首相候補に挙げられたが首相になることができなかった。

★広い視野をもっており、宇垣首相が実現していたら太平洋戦争は避けられたかもしれない。石原莞爾は宇垣を下したことを深く後悔していたという。

昭和陸海軍の失敗』(2007年、文藝春秋:座談会)~彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか~の第1部は陸軍編。

サブタイトルは「日本型組織の失敗。」

第1章は『派閥抗争が改革をつぶした』。

ということで、宇垣一成、荒木貞夫を紹介。

1931年の3月事件で担がれたのが宇垣一成、10月事件で担がれたのが荒木貞夫です。【年表

ともにクーデターは失敗しましたが、首謀者にも大甘な処罰。

「民間右翼」なんて怪しいものとは組まないのが普通ですがね。

以下、担がれた2人の略歴とともに、読書メモ。

【宇垣一成】

写真はwikipediaより引用。

略年表

1868 岡山県の百姓の家に生まれる。(5人兄弟の末子)
1890 陸軍士官学校卒業。(1期:150人中11位。)
1900 陸軍大学校(※1)卒業。3番の成績。(14期)

山縣ー桂ー寺内ー田中と続く長州閥に推挙される。(※2)
1902 ドイツ留学(※3)
1904 日露戦争に情報参謀として従軍
1913.8 山本権兵衛内閣時代の陸海軍大臣現役制廃止に反対し左遷。(※4)

このことも「アンチ宇垣派」を増やすことに。
1921 バーデンバーデンの誓い(※5)
1924.1 清浦内閣において陸軍大臣に就任
1924.6 清浦内閣総辞職後の加藤高明内閣においても陸軍大臣留任。

「宇垣軍縮(※6)」を断行(大正14年)。

※浮いた経費を軍の近代化に使う予定であったが、不況と震災の余波で思うように進まず。

その個性(※7)と相まって「アンチ宇垣派」(※8)を増大させることに。
1926.1 加藤高明逝去後の若槻内閣においても陸軍大臣を留任。
(昭和初の陸軍大臣。)
1927.4 若槻内閣総辞職
1929.7 浜口内閣で再び陸軍大臣。

再度軍縮を検討するも実現せず
1931.3 三月事件
クーデターで首相になる可能性があったが、変心し実現せず。
1936二二六事件
1937 広田内閣総辞職後に首相候補に挙がったがアンチ宇垣派である石原莞爾らの工作により陸軍大臣を引き受ける人物がおらず実現せず。この半年後に盧溝橋事件から日中戦争突入。
1938 近衛内閣で外務大臣となり、日中和平交渉などを行うも陸軍の妨害、近衛首相から梯子を外されたこともあり辞職。

宇垣工作はコチラ
1943 中野正剛らにより東条を倒して首相になる動きがあったが、失敗。中野は自刃。
1953 参議院となる。
1956 87歳で死去。

(※1)【陸軍大学校】…参謀を養成する教育機関として明治15年に創設。陸軍士官学校など陸軍の学校のほとんどが教育総監部に属する中、陸大は参謀総長直轄だった。

(※2)もっとも、「田中義一に頼まれてしょうがねぇなぁ」的な態度。

(※3)この時の論文は「いかに共産主義の拡大を防ぐか」「婦人の教育はどうすべきか」など軍人の域をはみだしている。

(※4)「予備役では日進月歩で専門化していくわれわれ現役軍人を指導できない」と歯に衣着せぬ言動で敵を増やす。

(※5)1921年、ドイツのバーデンバーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機が軍制改革と藩閥打倒を誓う。軍制改革という点では宇垣と一緒であったが。

(※6)【宇垣軍縮】…軍縮でリストラされた将校たちは配属将校として中等学校以上の男子校に送り込まれ軍事教練を行った。

(※7)昭和天皇も「宇垣みたいな人は総理大臣にしてはならないと思う」と『昭和天皇独白録』に記している。

(※8)バーデンバーデン組に加え、薩摩閥である上原勇作(旧制3期)や、真崎甚三郎(9期)、山下奉之(18期)らもアンチ宇垣派で反長州閥であった。永田と小畑など、のちに皇道派と統制派にわかれるが、元々はともに「アンチ宇垣」派であった。

♨宇垣一成を知らないと、「統制派と皇道派の争いがいきなり起きて二二六事件」みたいな変な覚え方になりかねない。(元々、統制派と皇道派は「反・宇垣派」であった。)

次章は【荒木貞夫編