こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑩:1863年上半期」です。
14代将軍・徳川家茂は攘夷派が牛耳る朝廷に呼び出されました。
そして、しつこく攘夷期限を急かされます。
やむを得ず「5月10日」と答えたところ、
ホントに長州藩は外国船に向かって砲撃を加えます。(長州藩外国船砲撃事件)
一方、江戸では英国が「生麦事件」の賠償金支払いを要求していました。
これは老中・小笠原長行が賠償金支払いを決定して英国との戦争を逃れました。
のちに小笠原長行は精兵を率いて家茂を京都から奪い返す計画を立てますが(卒兵入京)、
家茂本人からもストップがかかり、中止します。
1863年(文久3年)上半期
1/5 | 慶喜、京都に入る |
2/2 | 長州藩、長井雅楽切腹 ※藩論が破約攘夷となったため。 |
2/13 | 家茂、上洛の途に就く ※家光以来。公武合体を世に示す。 |
3/4 | 家茂、京都に入る |
3/27 | 水戸藩尊攘派藩士らにより天狗党の乱(~12/17) ※藤田小四郎(藤田東湖の息子)、武田耕雲斎ら。 |
3 | この時期、Central Bank of Western Indiaが日本進出。横浜に支店を持つ。 |
4/20 | 家茂、攘夷の実行期限を5月10日と奏上。(※1) |
5/9 | 老中・小笠原長行、独断で生麦事件の賠償金支払裁可。これにより英国との戦争回避。 ※しかし、のち横浜鎖港を要求したことで英国は日本侵略計画をシミュレーションする。 |
5/10 | 長州藩、関門海峡通過の外国船を砲撃(※2) ※翌月に米、仏から報復攻撃を受け、長州藩の軍艦は撃沈、砲台も破壊される。 ※翌年にさらなる報復。 ※長州藩は砲撃に参加しなかった小倉藩を敵視し攻撃。 ※しかし、これにより諸藩も反長州となった。 「朔平門外の変」で尊攘派首領姉小路公知が暗殺される。 ※薩摩藩士田中新兵衛に疑い。黒幕は滋野井公寿、西四辻公業という小攘夷派過激廷臣か?姉小路が海舟に説得されて大攘夷に転換したのも原因?薩摩および中川宮(公武合体派)が朝敵になる恐れが生じた。これが「8月の政変」の導火線に。 ※もっとも当時、薩摩は生麦事件後でイギリスとの交戦に備え多忙。 |
5/12 | 「長州ファイブ」がイギリスに留学(※3) ※伊藤博文ら。5/10に長州藩は外国船を砲撃したが、イギリス船は砲撃していない。あえて?? |
6/1 | 小笠原長行ら淀に到着(※4) ※水野忠徳、井上清直ら洋装の精兵1600人で家茂を江戸に連れ戻そうと「卒兵入京」を計画したが、在京中の老中、若年寄、一桑会らの反対で淀で止まる。ただ、家茂の江戸帰還は実現。 →【小笠原長行に関してはコチラも】 |
6/16 | 家茂、江戸城に戻る |
6/18 | 三条実美らにより「無二念打払令」が出される |
(※1)家茂、上洛!
尊攘派が優位に立った朝廷は、しきりに攘夷の決行を幕府に迫り、幕府は攘夷実行の意思をもたなかったが、やむなく1863年5月10日を期して攘夷を行うことを諸藩に通達した。
「詳説日本史研究」p324
家茂は京都に呼び出されて攘夷の実行を迫られました。
家茂の行列に向かって、見物に来ていた高杉晋作が「よっ、征夷大将軍!」と茶化すように言ったという逸話があります。
(どうも後世の創作のようですが)
そう名乗っているからには攘夷すんだろ?
(※2)長州藩外国船砲撃事件
長州藩はこれに応じ、その日、下関の海峡を通過した外国船に砲撃を加える長州藩外国船砲撃事件をおこした。
詳説日本史研究p324
日本が国力をつける方が先だ!
なぜなら…
詳説日本史研究には書かれておりませんが、翌月には米、仏からしっかり報復を喰らっております。
(※3)長州ファイブが英国留学
諸藩でも、長州藩では1863年に井上馨(1835-1915)、伊藤博文(1841-1909)ら藩士5名を留学させ…
「詳説日本史研究」p328
おかしいと思いません?
しかも、イギリス船は撃っていないんですよ。
薩摩藩も五代友厚、寺島宗則、森有礼らをイギリスへ留学させています(1865年)。
(※4)幻の「卒兵入京」
一般的な知名度は低いですが、小笠原長行を知ってこそ幕末通です。
平たく言いますと、家茂を江戸に取り返すべく幕府の精兵を率いて「承久の乱」をもう1回やろうとしました。
結果的には在京の老中、一会桑グループ、家茂本人からの反対で実現しませんでした。
生麦事件の賠償金を独断で決定して解決するなど、胆力のある人物だったと思います。
「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」。