こんにちは。
本日は、「1865年」について紹介したいと思います。
1865年、って何だっけ・・・
特に大きな出来事あったっけ・・・
語呂合わせあったっけ・・・
と思っているかも知れませんが、
世界全体に目を向けますと、
「アメリカ南北戦争終結」
という重大事件があった年でもあります。
我々は結果を知っているからこそ幕府が亡びたことを知っているわけですが、
リアルタイムで生きた人々の多くは、この時点で幕府が転覆すると思っていたでしょうか?
さて、1865年をピックアップした理由を踏まえて、年表を紹介したいと思います。
なお、世界史と照合させるため、西暦で書かせていただきます。
1865年、略年表。
1月 | 第1次幕長戦争終結。 |
2月 | 高杉晋作、功山寺決起。 |
5月 | アメリカ、南北戦争終結。 |
6月 | 幕府は第2次長州征伐の準備を開始 駐日イギリス公使がオールコックからパークスへ 坂本龍馬、亀山社中設立。 |
10月 | パークスら四カ国(英仏蘭米)、勅許なしでは下関戦争での賠償金の支払い延期を認めないことを幕府に通達 |
11月 | 孝明天皇、開港勅許 |
翌7月 | 第2次幕長戦争。 |
~1月:第1次幕長戦争
まず、第1次幕長戦争は、「戦わずして幕府の勝利」に終わります。
総攻撃の前に西郷隆盛は勝手に長州藩一門吉川経幹との間で講和条件をまとめてしまうのですよね・・・
これには勝海舟の助言もあったと言われます。(何やってんだか。)
条件は、
①蛤御門の変の責任者である三家老切腹、
②三条実美らの他藩移転、
③山口城破却
でした。
それを遅れて到着した総督徳川慶勝が追認。
幕府軍は解散となります。
幕府としては下関戦争の苛酷な賠償金を肩代わりさせられたうえに、何もしないで帰る徳川慶勝に批判が集中しますが、
そもそも徳川慶勝は最初からやる気がありませんでした。
家格が低いの選んで、島原の乱は最初失敗しているしのぅ。【コチラも】
尾張藩と中央は元々仲良くないのも原因では。
薩摩藩はこの時、幕府方です。
2月:功山寺決起
功山寺で決起した高杉晋作は徐々に大集団を形成し、保守門閥派との戦に勝利します。
椋梨藤太は斬首となり、大村益次郎のもと兵制改革が行われます。
「銀魂」も見ろよ。
第1次幕長戦争の意味ないじゃん!
5月:アメリカ南北戦争終結
南北戦争終結によって、余った「最新式の」武器が上海経由で、めぐりめぐって長州へ。
坂本龍馬は6月に亀山社中を作っておりますが、グラバーの下請け、とでも言いましょうか。
幕府はまたグラバーを通じて大砲など注文していましたが、グラバーはちゃっかりその手付金を薩摩藩へ供与していたりもします。
(グラバー自身も倒幕の要因は私にあると言うほど)
その方が、勝った時の影響力が大きいですし、強い方が勝ってさらに強くなるよりメリットがあるんでしょう。
6月:オールコックからパークスへ
これにより、対日戦略も恫喝に変更しました。
第2次幕長戦争の準備をしていた幕府は足止めを喰らうこととなりました。
(まるで長州軍の戦力が整うのを待っているかのようにしか見えませんが・・・)
下関戦争での賠償金の支払い延期は勅許なしでは認めないと言います。
ちなみに11月、慶喜(当時、禁裏御守衛総督)が説得して孝明天皇がようやく条約勅許を出します。
これにより異人斬り、外国公使館襲撃、外国船砲撃などはピタリとやみました。
京都から近い兵庫の開港は許可されませんでしたが、パークスらは一応満足しました。
1866年7月:第2次幕長戦争
最新兵器を仕入れた長州軍と幕府軍の第2次幕長戦争は、「まるで、狩りをするかの如く」であったといわれます。
というわけで、1864年と1866年で、全く様相が違うのはアメリカ南北戦争終結が関係しているという話でした。
世界史との関連も大事ですね。
★南北戦争終結で余った最新式の武器がグラバーー坂本龍馬を経由して長州藩のもとへ。
★幕府はすぐにでも第2次幕長戦争を始めたかったが、パークスらによって足止めを喰らう。
★第2次幕長戦争は「まるで、狩り」となった。長州藩の圧勝。