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☞【戦局悪化。忍び寄る危機。】「1943年1月~6月」

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「1943年1月~6月」です。

すでに年末にガダルカナル島撤退が決まっておりましたが、2月に撤退を実行しました。

(撤退するにも一苦労ですよねー。)

一方、国内では東条英機への反発の声も高まっておりました。

中野正剛は「戦時宰相論」を寄稿し、東条を暗に批判。

その後も東条政権転覆を目指します。

(憲兵隊を使った言論弾圧を受け、10月に割腹自殺)

また、山本五十六は戦死アッツ島は「玉砕」独ソ戦ではドイツが劣勢となります。

ガダルカナル島は撤退しましたが、ソロモン諸島の戦いは続きます。(日本が勝利した戦闘もありましたが…)

以下、「総力戦のなかの日本政治」などを参考にさせて頂きました。(wikipediaによる補強も大です。)

【年表】1943年1月~6月

1943年東南アジア太平洋その他
1月ニューギニアのブナで日本軍全滅(2日)中野正剛「戦時宰相論」に東条が激怒(1日)(※1)

カサブランカ会談(14日~23日)(※2)
・英米
・イタリア上陸作戦確認
無条件降伏を要求する方針
2月ガダルカナル島撤退(1日~7日)

撤退戦ではニセ情報を流して日本兵を救出するなど、日本の情報部隊の能力は決して低くなかった
スターリングラードのドイツ軍降伏(2日)
・既にドイツはソ連に勝つ能力を失った。
・日本はドイツが兵力を温存した状態で日独vs英米に持ち込みたかったが、ヒトラーに停戦の意思なし。
3月ビスマルク海で輸送船団全滅(2日~3日)東条政権における言論統制、統制経済、戦時行政への不満噴出
4月山本五十六戦死(18日)(※3)
・ラバウルを飛び立ったが暗号解読により待ち伏せされており撃墜
5月小畑信良第15軍参謀長更迭
・インパール作戦に反対していた
アッツ島日本軍守備隊玉砕(29日)(※4)
・アリューシャン列島のアッツ島に米軍上陸
・迎え撃った日本軍2600人は捕虜となった30人足らずを除いてほぼ全員戦死。
「玉砕」という言葉が初めて公式に用いられた
・キスカ島撤退作戦も行われる(~7月)
大本営政府連絡会議「大東亜政略指導大綱」
・汪兆銘政権との条約
・タイとの相互協力
・ビルマ独立の確認
「大東亜会議」計画
など
6月議会で東条に野次をとばした赤尾敏が翼政会除名

(※1)中野正剛

wikipediaより
1886.2.12福岡県、旧福岡藩士の家系に出生
1900柔道に明け暮れる
1905早稲田大学政治経済学部入学日露戦争
1909日報社入社、以後、政治ジャーナリストの道を歩む
1920衆議院初当選
1922革新倶楽部(犬養毅、尾崎行雄ら)結成、のち憲政会(のち民政党)へ移籍
1926術後血栓にて左脚切断
1932協力内閣運動に挫折した安達謙蔵とともに民政党を離党し、国民同盟結成五一五事件
満州国建国
1936東方会結成、総裁となる二・二六事件
1939社会大衆党との合同を計画するも不成立第2次大戦勃発
1940大政翼賛会総務就任三国同盟
1941総務辞任東条内閣誕生
日米開戦
1942大政翼賛会脱会
東条弾劾演説(11月)
ミッドウェイ海戦
ガダルカナル攻防戦
1943.1「戦時宰相論」を朝日新聞に寄稿(※a)
その後、東条内閣転覆を目指す
1943.10.27憲兵隊に拘束後、割腹自殺

(※a)「戦時宰相論」

「非常時宰相」は絶対強くなくてはいけないが、宰相として真に強くなるには国民の愛国的情熱と同化し、時にはこれを鼓舞し、これを激励することが必要だ。…しかし、幸い、日本には尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできているのである」

という趣旨。

東条のことを名指ししたわけではなかったのですが、かねてより東条批判を繰り返していたため東条は激怒。

のちに、憲兵隊に拘束され、陸海軍について造言蜚語をなしたという理由で取調べが行われました。

そして憲兵隊から離れた後、中野正剛は割腹自殺を遂げたのです。

(いったい、どんな取り調べを行ったんだ…)

東条英機は憲兵隊を使った弾圧をしばしば行い、また批判者を懲罰召集によって戦地に送っていました。

(※2)カサブランカ会談(英米)

大西洋憲章につづく英米の会談がカサブランカで行われました。

(あまり試験などでは出ないのですがね。)

今回の内容は次の「イタリア上陸作戦」と、「枢軸国に対して無条件降伏を要求すること」でした。

9月にイタリアが降伏するのですが、そののちのカイロ会談(11月)→テヘラン会談(11月)となります。

(1943年11月は出来事が目白押しです。)

(※3)山本五十六戦死

暗号が傍受されていたために撃墜されました。

しかし、それに加えて山本五十六が「カッコつけて、あえて討ち死にした」という説まであります。

いずれにしても戦況が思い通りではなかったことは確かでしょう。

ちなみに米軍は山本より優秀な司令官が現れることを配していましたが、「大丈夫、山口多聞はもういませんから。(ミッドウェイで戦死)」というやりとりがあったことは有名。

(※4)アッツ島玉砕

山崎保代部隊長は右手に軍刀、左手に国旗を持ち、先頭に立って奮戦。

この戦は「玉砕」という言葉をもって、はじめて国民に敗北が知らされた戦いでした。

詳細はwikipedia「アッツ島の戦い」

北方軍司令官・樋口季一郎は次の「キスカ島撤退作戦」を行う。

【キスカ島撤退作戦はパーフェクトゲーム!】

まとめ

戦局悪化。
東条批判。

つづきはコチラ