こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「荒木貞夫」。
この人がもうちょっとマトモな人だったら・・・と思いますが・・・。
『昭和陸海軍の失敗』(2007年、文藝春秋)をベースにさせて頂きました。
【荒木貞夫】
若手将校からの人気がすさまじく、「十月事件」で軍事クーデターが成功した暁には総理大臣にと担がれました。
※ちなみに十月事件の首謀者たちの資金源をたどるとソ連に行き着くという説もある。(倉山満先生「満州事変」)
陸軍大臣就任後は「皇道派のドン」と呼ばれ、強引な人事を行なっていましたが、「二二六事件」で失脚。
しかし、その後の近衛内閣において文部大臣に抜擢され、「精神主義」を推し進めたというのは盲点ではないでしょうか。
【年表】荒木貞夫(1877~1966)
1877 | 東京都に生まれる。 一橋家家臣の長男。 |
1897 | 陸軍士官学校卒業(9期) |
1904 | 日露戦争従軍 |
1907 | 陸大を首席で卒業(19期)(※1) |
1914 | 第1次大戦では従軍武官としてイギリス軍と行動を共にする。 |
1917 | ロシア革命にてロシア軍に従軍。 シベリア出兵ではウラジオストク派遣軍参謀を務める。(※2) |
1931 | 十月事件のクーデター内閣で首相に予定されたが本人の希望もあり実現ならず。(※3) 犬養内閣において陸相に就任。(※4) |
1932 | 斎藤内閣でも留任。 国体観念、精神主義、反共、反露を説く。青年将校を取り立てる人事を行うが、過激化する青年将校を押さえようとすると、彼らの人気を失う。 (※5) |
1933 | ゴーストップ事件(※6) |
1934 | 陸相辞任(※7) |
1936 | 二二六事件。 反乱軍に同情的態度を示し、予備役へ編入された。(※8) |
1937 | 第1次近衛内閣、平沼内閣において文部大臣。 精神主義、軍事教練を推し進める。(※9) |
1948 | A級戦犯として終身刑に(※10) |
1955 | 仮釈放 |
1966 | 89歳で死去。 |
(※1)陸大を首席で卒業
この学校での成績がその後の昇進まで影響するというのが昭和陸海軍の危険なエリート思想だったのではないか、と指摘する声は数知れず。
社会人の目からしてみますと考えられないことですね。
同期に皇道派の盟友となる真崎甚三郎(佐賀県出身)がおりましたが、この人は評判がすこぶる悪いのです。
(※2)豊富な戦争経験。
このあたりが下のものからの人望を集めた点でもありましょうか。一夕会の主力もそうですが、陸軍士官学校16期より下は日露戦争に本格的に出征しなかった世代でもあるのです。
(※3)十月事件
橋本欣五郎、大川周明らに担がれる。
(※4)陸相就任で豹変?
もともとは自分がボスという認識はないような人でしたが、陸軍大臣になって明らかに豹変。
やたら「皇軍」と言う言葉を用い、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と本気で言うなど、過剰な精神主義へ傾きました。
♨過剰な観念論をふりかざしていたというのは「デマ」、とは倉山満先生。
陸相就任できたのは永田らの功績もありましたが、陸相就任後は「偏った派閥人事」を行いました。作戦課長は皇道派の小畑敏四郎に。
(もっとも派閥は民主主義と独裁の中間であり、効率的でもあるという考えも。)
また陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたといいます。
(その方がコントロールしやすいからであろうが、何という不遜!!)
(※5)求心力低下
あれほど自宅で部下と酒盛りをした上司はいないとの評もありましたが、陸相とともなると彼らの暴走を注意しなくてはならない立場となり、将校らの求心力を失います。
(※6)ゴーストップ事件
陸軍兵と巡査のケンカから内務省と対立。
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(※7)陸相辞任。林銑十郎陸相誕生。
陸相辞任は正月の痛飲が原因。
後任には真崎を推薦したが、あまりの評判の悪さで実現せず。
(※8)二二六事件
求心力低下していたが、二二六事件で皇道派が軍事クーデター政権を樹立する可能性もあった。
もっとも鎮圧されて皇道派は失脚。
※石原莞爾に「この馬鹿野郎!」と言われてケンカになりかける。
※ちなみに五一五事件の時も犬養の親族に「お前のせいだ!」と言われている。
(※9)なぜか文部大臣
近衛は荒木のことを尊敬していたせいか、近衛内閣において文部大臣に就任。
もっとも、河合栄次郎東大教授らへ不当な弾圧を加えるなど「軍国主義教育」を推進した。【コチラも】
♨なんでこういう人をよりにもよって文部大臣にしてしまったのだろう…。
(※10)東京裁判
死刑は免れ終身刑に。
ひそかに自宅に帰っていたが許されていたといいます。
自宅には芸能人(藤山一郎、淡谷のり子)が慰問に訪れたりもしていました。
【まとめ】
★人間的に魅力のある人物であったことは確かであろう。しかし、いくら首席とはいえ、人の上に立ってはいけなかったのであろうか。
★陸相時の不公平な人事で皇道派と統制派の対立を招く。さらにはゴーストップ事件で内務省とも対立。その他、過剰な精神主義を押しつける。二二六事件後も文部大臣に就任し、ここでも過剰な精神主義を押しつける。
★荒木が陸相だった時期はクーデター計画が頻発したが、いずれも成功しなかったことが、永田らに非合法な方法ではないやり方を模索させるきっかけになったのでは?
感想としましては、こういうタイプはおそらく職場に1人くらいはいるのではないかと思います。(西郷隆盛的ともいうか)
「人間的魅力」について書かれることが多いのですが、単なる人気を「人間的魅力」と表現して良いものかはいささかギモンが湧きます。
彼の問題の1つは露骨な派閥人事でしたが、「適度な敵対勢力の存在」がいかに大切かとつくづく思います。
【続いて、永田鉄山】