こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』第14章です。
鉄砲伝来に始まり、いよいよ江戸幕府編にまで突入しました。
世界史と一緒に考えると、江戸時代の政策はよくわかると思います。
江戸時代に入って幕府とイエズス会の関係はどう変わったのでしょうか?
【まとめ】
家康は貿易の希望はあったが、伝道には嫌悪感をもっていた。
そんな折、布教なしでも貿易はすると言ってくれるオランダ、イギリスが台頭した。
オランダはスペインから独立運動の最中で、スペイン・ポルトガル(同君連合)とは敵対していた。
(最終的にオランダが貿易相手に選ばれる。)
秀吉の死後、イエズス会は石田三成に今後のことを打診したところ、「まだしばらく目立たぬようにしていた方が良い」と好意的に言われます。
家康からは「太閤がなくなってすぐに追放令を解除するわけにはいかないが、いずれ定住の許可がおりるだろう」と言われます。
しかし、家康は前年(1598年)、伊勢に潜伏していたフランシスコ会の宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースに「スペイン船の浦賀寄港」、「スペイン人鉱山技師、パイロットの斡旋」を依頼していました。
しかし実は、キリスト教徒の「殉死」とか、ちょっと気味が悪いんじゃ。
太閤殿も仰っていたが、キリスト教は日本の風土に合わないんじゃないか、って思う。
ま、貿易の利益を得たいだけなんじゃがな。
スペイン系修道会はその後も次々に日本へやってきますが、
結論から言いますとスペインとの貿易は進展しません。
三浦按針来日。
スペインとの貿易が進まなかった理由の1つは、イギリスやオランダといった「布教なしで貿易可」という新興国の出現があったからでしょう。
さらには、彼らはオランダと敵対関係にありました。
そんな中、1600年、「オランダ船リーフデ号」が大分に漂着しました。
その船の中に「ウィリアム・アダムス」というイギリス人がいました。
大坂へ回漕されたアダムスは家康に謁見し、オランダとスペインの交戦などを話します。
これまでイエズス会はオランダ船員らのことを「海賊」と言っていましたが、
家康はアダムスを気に入り、側に置くようになります。
アダムスは「三浦按針」という日本人名ももらいます。
家康には数学、欧州情勢を教え、また家康のために西洋式帆船2隻も贈りました。
元々は「船大工」ですしね。
こののちも重要な役割を果たします。
オランダも、来日。
つづいてオランダ。
イギリスもそうですが、彼らは「国家そのものが海賊」といった感じでしょうか。
それにはこんな背景があります。
まず、1568年から、オランダは反スペイン運動を行い、マウリッツの指導のもと独立を達成します。
しかし、1580年、フェリペがポルトガル王を兼任するとオランダ船がリスボンに入港できなくなります。
そこで、アジア貿易に参入します。
1596年よりアジア航路開拓し、1602年には乱立する会社を統合して「東インド会社」を設立します。
この「東インド会社」は、「会社」と名前がつきますが、「軍隊」を備え、「要塞」を構え、条約を結ぶ権利も有していました。
そして彼らはアジアにおけるポルトガルの拠点を攻撃して敵にダメージを与えるという任務ももっていました。
新参者にとって、新たな交易ルートを開拓するより、今あるルートを奪った方が早いですしね。
まさに、欧州の戦争をアジアに持ち込んだ感じです。
あと言っておくが、イギリスも「東インド会社」作ってたらしいけど、オランダ東インド会社は奴らの10倍の資本金だからな。
①財政難、オランダ船の脅威
②日本人のキリスト教離れ
③スペイン系修道会の参入
という問題に直面していました。
あ、そういえば死んだコエリュはじめ、イエズス会の中にもスペイン系修道会に同情的な宣教師もいたんで困りました。
規模が大きいのでしょうがないのですがね。