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☞【ポルトガル船の沈没とポルトガルの翳り】『バテレンの世紀』(渡辺京二、2017年、新潮社)

こんにちは。

本日ご紹介しますのは、『バテレンの世紀』(2017年)、第15章。

ポルトガル系・イエズス会の独占状態だった日本市場ですが、

スペイン系の参入、オランダ船による妨害で徐々にイエズス会は追い詰められて行きます。

さらにマカオ事件の余波で、大量の生糸を積んだ船も沈没してしまいます。相手は有馬晴信と長崎奉行でした。

「マードレ・デ・デウス号事件」です。

【まとめ】

イエズス会の伝道」と、「ポルトガル人による長崎貿易」という単純な構図は、家康の時代に複雑化した。

伝道にはスペイン系修道会が参入し、貿易にはオランダ、イギリスの参入があった。

そのような状況下で、1610年、「マードレ・デ・デウス号」というポルトガル船沈没事件が生じる。

イエズス会とスペイン系修道会

1585年、ヴァリニャーノが教皇に働きかけることでスペイン系修道会は来日禁止を言い渡されていました。

しかし、これも徐々に緩和され、1608年になると日本への入国が自由になりました。

そして、家康の「全方位外交」により、長崎は「イエズス会」に加え、「フランシスコ会」、「ドミニコ会」、「アウグスティノ会」がしのぎを削る場となります。

貿易面ではフィリピン政庁からの貿易が増加しました。

フィリピン政庁は、小麦などの食糧や、日本からの武器類および傭兵が欠かせませんでした。

なんせマニラで武器をとれるスペイン人は700人ほどだったので、日本人傭兵300人がいなければ中国人の反乱を鎮圧できないほどでした。

ポルトガルvsオランダ

一方、ポルトガル

フィリピン商船増加に伴い、生糸の取引価格が暴落します。

そのため、マカオー長崎貿易で得られる利益も徐々に減ります。

そこへオランダが追い討ちをかけます。

かねてより独立戦争を行なっていたオランダですが、1609年、北ネーデルラント7州がスペインと12年間の休戦条約を結びました。

これにより、オランダは独立国の地位を得ます。

しかし、発効は「翌年」です。

そのため、それまでになるべく多くの東アジアのスペイン、ポルトガル艦隊に打撃を与えるようオランダ東インド会社は攻勢をかけました

1つの標的が日本へ向かうポルトガル船「マードレ・デ・デウス号」。

「マードレ・デ・デウス号」の拿捕には失敗しましたが、この船を追っているうちにオランダ船は平戸へ入港します

この珍客を領主の松浦氏は大歓迎し、「オランダ商館」のはじまりとなります。

松浦氏は貿易のうまみを長崎にとられて悔しがっていました。

マードレ・デ・デウス号爆沈

ただ、この「マードレ・デ・デウス号」を沈没させた原因はオランダではなく、日本でした

発端は1608年。

マカオにて、治安を乱した有馬氏の家臣が現地のカピタン・モール(最高位)であるアンドレ・ペッソアに殺されます。

マカオ事件」です。

当時、日本人が海外で暴動を起こすことは日常茶飯事じゃったんだがな。

それもあって有馬氏は長崎奉行・長谷川藤広と組み、ペッソアの乗ったマードレ号を攻撃します。

戦いの最中、マードレ号乗員が投げた焼弾が床に落ち、引火して帆が燃えた際、ペッソアはとっさの判断で、火薬庫に点火しました。

この船に搭載されていた生糸は、当時の日本の年間生糸輸入量に相当する量でしたが、それらは日本人の手に渡ることなく沈没しました。

この一件で、日本とポルトガルの貿易は一時、途絶えます。

その後、貿易の利益を独占しようとした長崎奉行・長谷川藤広と、領主・有馬晴信が揉めて、「岡本大八事件」が起きるわけじゃな。
しかし、ポルトガルはあれだけの海上帝国を維持するためには人口が少なすぎだろ。

逆に言うと、よくそれまであの人数でやっていたものだ。

まあ、これからはオランダの時代だがな。