こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』18章。
戦国が終わろうとする世において、海外進出を試みたフロンティアたちがおりました。
日本の「大航海時代」とでも言いましょうか。
朱印船南へ
1601年、家康は朱印船貿易を開始しました(~1635)。
理由は外国船に頼っていた生糸と絹織物を朱印船で運ぼうとしたからです。
結果的に朱印船貿易は他国船を圧倒しました。
江戸時代から鎖国に至るまで海外へ出た日本人は総数10万人ほど。
そのうち、定住したのは7000~10000人。
各地で形成された日本人町は朱印船貿易を有利に進めたからです。
(すでに、フィリピンへは1570年代から渡航が始まっていました。コーチシナには1577年に日本船が現れた記録があります。カンボジアにも1590年代に日本船が現れた記録があります。シャムにも1590年代に現れた記録があります。)
また、1597年には日本船で船員の日本人と乗客のポルトガル商人がケンカしたという伝えもあります。
秀吉の海外戦略
最初に「朱印状」(海賊でないことの証明)を発行したのは秀吉と言われております。
なぜ、渡航に向かったかと言うと、
国内が安定し、それまで外国船による輸入に頼っていた生糸と絹織物を自国船で運ぼうとする余裕ができたことが理由の1つと考えられます。
世界有数の銀産国だったおかげで、資金は豊富にありました。
家康の海外戦略
家康は、1599~1607年の間に、フィリピン、シャムなどの国王に「朱印状を持った船だけ相手にして欲しい」という書簡を書いて送っていました。
この効果は絶大で、オランダ、イギリスのような海賊商船も朱印船には手を出しませんでした。
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当初の日本船は非常に危なっかしいものでしたが、徐々に改良されました。
結果として朱印船は各地で優位を続けます。
(これには各地に「日本人町」が形成したことが原因として挙げられます。現地の日本人が朱印船を優先したのです。)
鹿皮の扱いなどシャム人には無理だったけど、日本人はできちゃうのです。
結果、江戸時代初期から鎖国に至るまで海外へ出た日本人の延べ人数は、総数10万人(!)と言われています。
定住したのは7000人から10000人ではないか、と推測されます。
シャムの日本人町は有名でしょう。
これらもあって、1604年から1639年までの輸入額は、朱印船によるものが1位で、ポルトガル船、中国船、オランダ船を上回ります。
あと、朱印船が秀吉公の時代からとありましたが、
現在のところ、秀吉公の朱印状は見つかっていません。
山田長政
また海外に定住した日本人のうち、最も有名な人物は山田長政でしょうか。
軍人としての活躍が有名ですが、「日本人町」の頭目として貿易にも従事していたという点は注意すべき点でしょう。
1590年頃、静岡県に生まれる。
1612年、長崎から朱印船に乗り、台湾を経て、シャムへ向かう。
現地で日本人傭兵として活躍。(日本人傭兵は200-300人はいた)
日本人町の頭目でもある。(つまり貿易にも従事。)
王位継承戦争で新王を即位させたが、権力強化をたくらむ新王側近により毒殺された。
1630年、死亡。