こんにちは。
今回ご紹介しますのは『バテレンの世紀』19章。
伊達政宗の項でも出てきましたが、1614年に家康が全国に向けて発令した「禁教令」についてです。
なぜそのような方針になったのでしょうか。
1612年、天領を対象に禁教令。
1614年、全国を対象に禁教令。
直接的な引き金となったのは1612年の岡本大八事件である。
また、家康にとって処刑における信者たちの狂信的な振る舞いは理解しがたいものであった。
家康はカトリックの性質をよく理解しており、それが国益に合わない、危険であるとも判断していた。
家康、禁教に踏み切る
直接の原因は、「岡本大八事件」でした。
生年未詳。
本多正純の家臣。有馬晴信がマードレ・デ・デウス号を撃沈させたとき【コチラ】、旧領回復の口利きをするといって、晴信から多額の賄賂をもらった。
しかし、いつまで経っても話が来ないことに業を煮やした晴信が駿府へ向かった。審理の結果、岡本大八が詐欺・賄賂などの罪で火刑となることが決定した。
ただ、岡本大八は最後に「有馬晴信が長崎奉行・長谷川藤広を殺害しようとしていた」ことを暴露する(※)。
これに対して晴信はしっかりとした申し開きをすることができず、晴信の処刑も決定した。
(有馬領は熱心なキリスト教徒が多く、これが島原の乱の遠因ともなる。)
※晴信は藤広と協力してマードレ・デ・デウス号を攻撃したが、のちに仲違いして叱責されたことを根に持っていた。
1612年没。
家康にとっての問題は、有馬晴信だけでなく、岡本大八自身もキリシタンであったことである。
キリシタンが腹心の家臣まで広がっていることに驚いた家康は、駿府の自身の家臣を調査。
そのうち、棄教していなかった家臣14名、女中3名が追放となった。
大八処刑の当日、天領における禁教令が出された。
しかし、この時の禁教はまだユルいものでした。
領主も「依頼」するにとどめるくらいで、受洗者も減りませんでした。
ただ、有馬領では、幕府への忠誠を示すために迫害が行なわれたました。
(しかし、棄教せずに殉死する家臣もいました。)
死者の遺物を目的に2万人が集結したことなどでは家康を気味悪がらせました。
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1614年。家康は、改めて全国対象の禁教令を発令し、宣教師の国外追放を命じました。
福島、前田、黒田といった、「親キリシタン大名」も、この時は無視するわけにはいきませんでした。
前田利長はそれまで匿っていた高山右近をついに追放しました。
高山右近は、マニラへ向かう航海中に健康を損ない、1615年、死去します。
これは幕府への手前、ある程度迫害をしないといけなかったこと、全員検挙することは無理だったこと、奉行および大名側にも親交のあるキリシタンもいたことなどが要因と考えられます。
また、薩摩の武士たちは武器をもたない人々を殺傷すことは卑しいと考えていました。
こういうこともあって、1人も死者を出さなかったことは特筆に値すると思います。
追放されて行き場を失ったキリシタン武将たちは、大坂の陣で豊臣方につきました。
もっとも、秀頼は熱心な仏教徒だったのですが。
つまり、ローマ教皇を頂点とする階層社会に組み込まれてしまうことは危険なんじゃ。
もっとも、わしは彼らの武力など何も恐れていないがの。
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