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☞【バカ殿じゃない?】『徳川十一代家斉の真実』(小泉俊一郎、2009年)【読書メモ編】

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『徳川十一代家斉の真実~史上最強の征夷大将軍~』(小泉俊一郎、2009年、グラフ社)の読書メモです。

以下、読書メモ。

幕府権力の絶頂期に君臨した将軍

頼山陽は「日本外史」において、「家斉時代こそ武家政権の絶頂期」と述べております。

経済面においては幕府のみが貨幣発行権を持っており、さらに参勤交代や普請(幕府に命じられてさせられる修理など)などで各藩は反逆など無理な経済状態でした。

一方、大奥は900人いて、さらにその召使を含めると3000人にのぼると言われました。

そして、家斉の子供の数は53人。これだけ作れるのにはそれだけの経済力があったから、という見方もできます。

また、葛飾北斎、滝沢馬琴、十返舎一九などによって「野暮」のない面白い町人文化が咲きます。

(ちなみに町人には税金がありませんでした。)

芥川龍之介(1892-1927)も、夏目漱石(1867-1916)も、この時代の作品の影響を大きく受けています。2人とも、「江戸っ子」の末裔と考えて良いでしょう。

十返舎一九は自分の火葬の際、自分自身に花火を仕掛けるなど、死に際も面白いです。

11代将軍誕生の陰に4つの疑惑

その家斉ですが、本来なら家斉は将軍にはなれる家格ではありませんでした。

しかし、第1候補である、10代将軍家治の長男である徳川家基は18歳の時、鷹狩にて急死します。

これには家斉の父、治斉によって毒を盛られた?という説が囁かれております。

さらに、第2候補であった、田安(松平)定信は白河に養子に出されてしまいました。

ここでも、治斉が田沼とグルとなっていた説などが囁かれております。

また、10代将軍家治も52歳の時に急死します。

田沼が推薦した町医者の調合した薬を飲んだ後に死亡したことから、「田沼黒幕説」が当時から流れました。

いずれにしても、これらが重なったことで、将軍家斉が誕生します。

将軍権力が最強になった時代

★「由比正雪の乱」以降、幕府は「改易」のかわりに「転封」を多用します。引っ越し費用は今でいうと50億円くらいです。これにより「鉢植え大名化」を狙いました。鉢植え大名には藩の改革すら思い浮かびませんでした。

(ちなみに、薩長土肥は転封ゼロで、潰しそこねたが感あります。)

★家斉の死後、水野忠邦の「上知令」(1843年)を発令して江戸、大坂を幕領にしようと試みましたが、大反対を受け頓挫敗します。この時期、将軍権力はすでに後退していました。

最高の権力を我が手に握った将軍

家康は6000億くらいもっていたが、家光の頃にはなくなっていました。金銀が枯渇したのも原因の1つです。

★しかし、家斉時代は貨幣改鋳による通貨の発行量増大というインフレ政策を行ったことで家斉は巨大な経済力を手にすることができました。

(庶民レベルも潤いました。)

★もっとも、初期の松平定信による「旧里帰農令」、「酒造量を減らす」、「棄捐令」(借金の棒引き)などの経済政策はひどかったのですが。

(これにより町人たちは財布のひもを締めてしまいました。)

家斉が裏切った田沼意次の革命

田沼意次は、

①大名領の百姓に課税、
②町人にも課税

を行おうと考えていました。しかし、①を行うと、将軍を国王とした絶対王政の時代が誕生することになり、潰されました。

もし実現できていれば、明治維新の100年ほど前に「幕府の手による維新」が完成しました。

そうした点で、田沼意次は幕政史上、唯一の革命家ともいえます。

また、経済面では「町人資本」と組んで、幕府を会社にする考えでした。まず製造させてみて、軌道に乗ると幕府お抱えにするという方式でした。(印旛沼開拓、銅座、平賀源内の一連の発明)

徳川幕府がもし田沼意次の革命路線を受け継いでいれば、100年後に潰れていたのは薩長であったかも知れません。

家斉の生への執念が大奥を栄えさせた

★家斉は大奥で生まれ、大奥が実家のようなものでした。そのうえ、前将軍・家治もその息子・家基も暗殺されたことがトラウマとなり、大奥に入り浸ったとも考えられます。

★1793年、松平定信が失脚しますと大奥は大喜びでした。「倹約」から一転、「浪費」となり、計算上、1年で72億円ほどが消えていくことになります。

(1817年に「寛政の遺老」最後の生き残りであった松平信明が死去すると、さらに浪費は悪化します。)

★実父に破格の出世をさせた家斉の側室・「お美代の方」は庶民出身でありながら、加賀前田家、広島浅野家に娘を嫁がせました。さらに、実家の寺を将軍御用達の祈祷所にしてしまい、これには12代将軍家慶も怒りました。

(家斉死後、実家の祈祷所は廃されます。)

文化文政期は庶民文化の最盛期

★家斉の大奥生活や松平定信の改革を風刺した作品は多数ありました。恋川春町は松平定信をからかい切腹までさせられております。

彼らの根本精神は儒教的な建前ではなく、鋭い現実でした。庶民のための文化が作られたのです。

★また、彼らを取り締まる役人の側にも個性的な人物が目立ちます。長谷川平蔵(鬼平)、遠山景元(金さん)らです。

★また、寺子屋、藩校などが盛んで、庶民の教育水準は世界一とも言われます。

逆に徳川家の旗本と御家人だけ教育機会に恵まれないと言う事態に。のちに沼津兵学校教官となった赤松則良は「おめえさんたち、薩長のイモに負けて当然だよなあ」と嘆くほど、幕臣の教育レベルは低下していました。)

家斉時代の最大の政治課題!?

ただ、家斉時代の後半は多事多難でした。

1804年レザノフ来日

1808年フェートン号事件。

(当時、欧州ではナポレオン戦争中で英仏が激戦中。オランダはフランス領となったため、イギリス船(フェートン号)が長崎に侵入してきてオランダ船を拿捕。フェートン号の侵入を防げなかった責任を受け、長崎奉行・松平康英は切腹。)

1825年、異国船打払い令

1837年、モリソン号事件

1842年、アヘン戦争

(アヘン戦争によって欧州の世論が侵略戦争に批判的になったため日本は被害が少なかった面もある。なお、島津斉彬は中国を助けるために派兵まで考えていたらしいが、家斉は他人事であった。)

家斉にとって最大の課題は成長した子供たちをどこに押しつけるか。成長したのは25人。(ターゲットとされたのは紀州藩のライバルである尾張藩。最終的に分家から慶勝が入って尾張の血を回復。)

家斉が名馬を得たら?

★家斉のすごいところは致命的なミスを一度もしていない点です。また、御庭番も巧みに使っていました。

家臣は駄馬ばかりでしたが、田沼意次のような名馬を得ていたら、名君と呼ばれていたかも知れません