こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「国風文化と唐物の世界」です。
「国風文化」というと、「日本独自のもの」というイメージがありましたが、当時の「国風文化=貴族文化」は中国文化が土台にあったので、「国風文化」と「唐風文化」は対立させるものではない、と気付かされました。
また、「遣唐使廃止」→「国風文化」という概念も誤りがあるようです。
以下、「古代史講義」(明治大学・中央大学・立教大学・大東文化大学・首都大学東京兼任講師、河内春人先生)を参考にさせて頂きました。
「国風文化」の理解は近年大きく変わっているのです。
【ポイント】
①遣唐使廃止の事実と評価が一般に流布されているものと異なる
②国風文化成立時に唐物は珍重されていた
③「国風」という概念
①遣唐使廃止の事実と評価が一般に流布されているものと異なる
これまで、「遣唐使廃止」により唐の文化の流入がなくなり、「日本独自の文化(=国風文化)」が発達したと解説されることが多くありました。
はたして本当にそうでしょうか?
「白紙に戻そう遣唐使」という考えを白紙に戻そう
894年に菅原道真が執筆した文書から、菅原道真が「遣唐使を廃止した」と長らく考えられていました。
しかし、近年では「廃止」というより「延期」であったと考えられています。
当時、菅原道真は遣唐大使でした。
災害の頻発などで延期する可能性があることを唐僧に伝えていたものの、中止するとは一言も触れていません。
延期している間に、道真自身が失脚し(901年)、唐は滅んだ(907年)ため、「結果として」遣唐使は自然消滅したに過ぎないのです。
♨ちなみに唐を混乱に陥れた「安史の乱」は755年。それからだいぶ時間が経過していることと、道真自身は「唐に到着後に遣唐使が危険な目に遭ったことはない」という見解を述べていたことから、唐の治安が遣唐使延期の理由でもない。
遣唐使がもたらしたものは時代によって変化している
また、遣唐使がもたらしたものについても誤解があるかも知れません。
8世紀の遣唐使たちは国家制度に関わるものを多くもたらしました。
しかし、最後の遣唐使となった838年のときは「芸能方面」の希求が強くなっていたのです。
この頃は日本文化も発達しており、法律なども、何でも唐に聞かないとわからないという状態ではなく、
平安貴族たちにとって欠かせないスキルである音楽の需要が増していたようです。
9世紀東アジアの時代背景
また、9世紀の東アジアは、日本、新羅、渤海といった7世紀の動乱期に成立した国々に支障が出始めた時期でもあります。
国境管理の弛緩は新羅において著明で、海賊が出現しました。
さらに、9世紀末から10世紀前半にかけては、907年には唐、926年には渤海、935年には新羅が滅亡しました。(日本では平将門、藤原純友の乱が勃発)
このような中で国際商人が重要な役割を占めていくようになり、遣唐使の担っていた役割の一部を行うようになった側面もあります。
欲しい物あれば売りまっせ。
動乱期における東アジアの文化的変化
また、この時期、各民族の政治的成長に伴って民族独自の文字が作り出されるという現象が起こりました。
北方民族の契丹が建国した「遼」は920年に契丹文字を作成し、
その後、11世紀西夏で西夏文字、13世紀ベトナムでチュノム、1446年に朝鮮王朝でハングルが登場しました。
遣唐使が廃止されなかったら平仮名は誕生していないか?
日本では、9世紀前半には、「かな文字」への助走が開始されていたと考えられています。
藤原良相(813-867)の家から出土した土器にはひらがなのようなものが書かれていました。
つまり、遣唐使廃止よりも、かな文字出現の方が先でした。
よって、遣唐使廃止が「かな文字成立」の原因ではない、と考えられています。
♨かな文字の発明前、「日本語」を一文字一文字漢字で書くのが大変でした。
例)「くらげなすただよへる」→「久羅下那洲多陀用弊流」。
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②国風文化成立時に唐物は珍重されていた
摂関時代、唐菓子、砂糖など唐物は非常に珍重されていました。
国内では供給できない色のある衣服も珍重されました。
※あまりに分を外れた贅沢な色使いをする輩もいたようで、914年には「美服禁令」なるものも発せられている。
つまり、「国風文化」最盛期でも、唐物は依然として大きな役割を果たしており、決して「唐風」と「国風」は対立しているものではありません。
③「国風」という概念
「貴族文化」を「国風文化」と言っているに過ぎない
そもそも、「国風文化」とは「貴族文化」のことで、支配する側の文化を述べているに過ぎません。
しかし、本来、文化とは地域や社会階層などの多様性と共通性を含みこむものです。
平安時代における貴族文化は日本においては一部に過ぎず、むしろ庶民の雑多な文化の方が多数です。
それを考慮せずに平安時代の「貴族文化」を「国風文化」として、さらに現在と直結するような考え方は慎まなければならないと思われます。
日本にある「中国的なもの」という概念
また、「国風」とは「中央」に対しての「地方」という意味合いでした。
しかし、1930年代になって、「唐風」に対しての「国風」という使われ方をするようになりました。
♨このことが大きく本質を歪めたのではないかと感じる。そもそも中国文化を土台としている「国風」と本家である「唐風」を対立させて考えることは難しいであろう。
それとは別に、9世紀初頭くらいには「和漢」という文化概念が成立しておりました。
これは、日本を中国を対比させる考えではなく、日本文化を構成する「日本的なるもの」と「中国的なるもの」を分けて対置するという考えです。
p229。和漢の構図(島尾新先生)
「倭名」→「本朝」→「三国」
そして、この「和漢」という概念の中から「日本を強調する思想」が生まれました。
これを「倭名」といいます。(源順(911~983年)「倭名類聚抄」など。)
それが肥大化して「本朝」意識というものが形成されます。
これは中国文化との対比の中で本朝を強調するものであり、平安中期以降、「本朝」を冠する書が増えました。
さらに中世に入ると、仏教的な価値観と結びつき「三国」という意識へとつながります。
「今昔物語集」などがその例で、「天竺、中国、日本」という世界認識が形成されています。
※朝鮮は脱落しているというのも1つのポイント。
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