こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』(2011年、NHK出版)陸軍篇の後半です。
【前編はコチラ】に書かせていただきました。
後編は数名の論客による論評です。
こうした論評って、教科書だけでは読み取れないことを補足してくれますので、私は好きですね。
以下、ピックアップ。
『陸軍を狂わせた人事システム』(森靖夫先生)
山県有朋死去(1922年)後は、政党政治が始まった時代であったため、
陸軍大臣を中心とする「陸軍省」優位のシステムが構築されました。
それに対して参謀本部は「軍事は政治に左右されるものではない」と統帥権独立の考えをより強く持つようになりました。
もっとも、陸軍省にいた人間が出先に回ったり、参謀本部にいた人間が陸軍省にいったりしているうちに、組織的なアイデンティティは崩れていきましたが。
また、多くの軍人は、失敗を認めると軍隊の統率が乱れると考えていました。
そのため、失敗は省みられず、「もう一打撃を与えれば」という話が延々と続くことになります。
軍人が軍人を評価、処罰することにも限界がありましたしね…。
陸軍の過ちは現代でも繰り返されていると思われます。
『日本が陥った負の組織論』(菊澤研宗先生)
…組織論として読んでも参考になりました。
二二六事件の後、派閥に属さない人間が取り立てられました。
しかし、全ての決定事項を民主的に決めることは、実は大きな取引コストが必要であり、経済学的には非効率であると言われております。
そして、反動で独裁を求めるという問題もあります。
そういう面で、陸軍大臣になった荒木貞夫が行った極端な「派閥人事」にはそれなりに合理性がありました。
「派閥人事」は倫理的に正しくなくても、「独裁」と「民主的」の中間としての機能があることも認識しておくと良いでしょう。
(ただ、結果的に荒木は「合理的に」失敗しましたが。)
また、この時代の軍人は、ポジションが変わった途端にガラリと行動を変える傾向があり、
歴史家たちを悩ませていますが、これは「行動経済学」で説明がつきます。
と言うのは、行動経済学的には「マイナス気分のときはもう1回勝負をしたい」そうです。
そのため、地方にいるときは積極的に、中央に帰ると自重気味といった行動をとるのだというのです。
そして、エリートだけに計算が早いので、その方が得だと思ったらすぐに空気に流される傾向もあります。
もし大改革をしなければいけない時は、「空気を読まない人」、「組織に属さない人」が向いています。
それでも、板垣征四郎のように優秀だが危険でもある人物の取り扱いはなお難しいですが…。
『内向きの論理・日本陸軍の誤算』(エドワード・ドレア)
…非常にわかりやすかったです。
この時代、民衆は不毛な議論ばかりしていて何もしていなさそうな政党よりも、目に見えて行動している軍を支持しました。
しかし、他国に軍を駐留し続けることで軋轢を生みました。
陸軍にとって本当の敵はソ連であり、今すぐ近代化してソ連対策をしなければいけない場面でも、ほとんどの兵は中国にいました。
中国から撤兵してソ連に備えようと考えても、中国での戦死者と、それに見合わない成果を考えると、引くに引けなくなってしまいました。
東京では引くことが検討されても、現地ではとても考えられず、
「部隊を増やせば相手を降伏させられる」という考えに至ったのです。
…陸軍士官学校制度も問題で、本来なら幅広い経験が必要だったでしょう。
『陸軍暴走の連鎖』(戸部良一先生)
こういう人間の暴走を止めるのは非常に難しいでしょう。
同調者が周りにも多くいたのでしょうね、部下がコンセンサスをつくってしまっていると上司はなかなか止められないものです。
『なぜ日中戦争をとめられなかったのか』(加藤陽子先生)
日露の関係は、1907年から1916年まで第1回~第4回日露協約を結ぶなど良好でした。
しかし、その後のロシア革命、シベリア出兵でその関係は終わってしまいました。
ワシントン体制に対抗する国家連合として中国、日本、ソ連の連合を構想する勢力も各国にいたのですが、
結局、ソ連側は「第1次五カ年計画」、「第2次五ヵ年計画」を行い、
日本側は「満州国設立」するなど、お互い将来起こる戦争に向けて準備しました。
荒木貞夫のような「対ソ」論者が近衛内閣に入閣した時、陸軍は政治主導で対ソ戦が始まることを懸念していました。
…などなど。