~只今、全面改訂中~

もっとも最近は、「関ヶ原の合戦はなかった」(乃至政彦先生)という本が、話題をかっさらっている。

本書は「家康の計略はことごとく当たった」と言う話ではあるが、2つの本を比べてみると、そんなにうまくいくかいな?と思ってしまう。

しかし、硝石の話は非常に勉強になったのと、全文通じてかなり面白く、織豊時代と江戸時代の間のあまり知られていない部分を一気に埋めることができた。

以下、読書メモと雑感。長いので前編、後編に分けた。

第1章:家康が格下の三成を恐れていた理由

堺と博多に地縁を持った三成は、太閤検地、復興事業を経て、各大名や商人たちと結びつきを強めた。

①石田三成は本当に嫌われていたのか

★関ヶ原の戦いの特徴は、豊臣恩顧の武将の多くが東軍で参戦したことである。

この原因は石田三成の性格のせい、という風潮があるがそうではない。

 ★むしろ、三成はかつて豊臣と敵対した毛利、島津、上杉などから非常に信頼されていた。

(彼らは西軍として戦う。)

島津も三成の検地により打出(増加分)を出されたが、三成を信頼している


★また、キリスト教徒からも「恩人」とされていた。

秀吉の「伴天連追放令」の時、京都奉行だった三成は、秀吉の命令を実行しながらも最大限の便宜を図った。

②実は交友関係が広かった三成

★小西行長、大谷吉継ほか、東軍で戦った真田信之とも懇意であった。三成の子たちは関ヶ原の戦いの後、弘前の津軽為信に密かに匿われていた。

豊臣方の将軍から嫌われているのは、「出世のしすぎ」であろう。

三成は筑前・筑後など直轄領の重要な地域の代官をつとめ、兄も堺奉行をつとめるた。

秀吉の遠戚である加藤清正、福島正則は、石高が高かったものの信頼度では及ばなかった。

③日本最大の商業地「近江」で生まれたことの意味

 ★三成は1560年、近江国坂田郡石田村で出生。ここは現在の長浜市石田町。

近江は当時最大の商業地。また、石高も高く、物流の拠点でもあり、工業も盛んであった。生まれながらに商業センスが身についていたのであろう。

④秀吉との出会い

★次男であったため寺に入れられていた。ここで秀吉に会い、「三杯の茶」の話もこの時。

⑤忍びの使い手でもあった三成

★「賤ヶ岳の戦い」では後方支援、諜報活動を行った。他の武将があまりやりたがらない仕事をそつなく行った。おかげで進軍がスムーズにいった。

⑥三成最大の功績「太閤検地」

★九州からの東北まで太閤検地の現場責任者

この検地は、明治の地租改正まで270年間されなかった。

⑦日本の二大港を押さえていた強み

★1586年に堺奉行を命じられる。この時の三成27歳。(※堺=摂津と和泉の境)
★「日本の富がすべて堺に集まっている」(フランシスコ・ザビエル)
★堺奉行の商人側の代表が小西隆佐。行長の父である。
★2年間奉行を務めた後、兄へ。他が忙しくなり過ぎた。

戦争で荒れた復興事業の現場責任者も石田三成。ここで博多商人との結びつきも作られ、のちの朝鮮出兵では兵站地として機能。

家康が恐れたのは三成のこういうところである。

⑧事実上、豊臣家の財務大臣だった

★五大老…徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家
★五奉行…浅野長政、長束正家、石田三成、増田長盛、前田玄以
★浅野長政が筆頭奉行であったが、これは年齢的なもので事実上は石田三成が運営。

⑨論功行賞にも大きな権力をもっていた三成

★褒章を行う場合、豊臣家の直轄地から削らざるを得なかった。実質的に直轄地を運営していたのは三成。しかし、削り過ぎると、家康との差が開いてしまうため、加藤清正などにもあまり褒章を与えなかった。これが加藤清正の三成への憎悪の原因の1つである。

⑩家康が三成をつぶさなくてはならなかった理由

★朝鮮での完全撤兵は石田三成によるところが大きい。

★財政にも外交にも強い三成がいて、秀頼が成人してしまえば勝ち目はないとふんだ家康は、朝鮮の役の不満分子を取り込むことにした。

★また、三成は家康の経済上の弱点を握っていた(後述)。秀吉死後の家康の行動は「三成をつぶす」という一点に凝縮されていた。

第2章:大名たちの経済格差を生じさせた朝鮮出兵

「関ヶ原」を知るには、朝鮮出兵を知らなくてはいけない。

①「関ヶ原」の伏線となった加藤清正と三成の対立

★加藤清正と小西行長はともに肥後半国を任され、ほぼ同条件で朝鮮の役に参戦。しかし、その後は正反対の行動。

②実はそれほど武闘派ではなかった清正

加藤清正は虎退治など武闘派のイメージがあるが、そうでもない。戦功は1583年(21歳時)の賤ヶ岳くらいで、どちらかと言うと、文官に近い

③同じ財務官僚としてのライバル心

★清正は秀吉が関白に就任した時、主計頭(かずえのかみ)という、税収の管理に関係する官職を与えられている。
堺周辺の直轄領の代官もしているが、三成はそのはるか上の堺奉行。

三成と福島正則は1歳違い、三成と清正は2歳違いのためライバル心もあったであろう。

④大抜擢だった肥後半国の領主

★1588年、清正は肥後半国19万5000石を与えられた。これは大抜擢。肥後の南半分は小西行長。朝鮮出兵を見越してである。

⑤清正の優れた経済感覚

★1589年、清正は私検地でさらに石高を2,3割増やす。海外貿易にも乗りだし、スペイン人向けに小麦を年貢の代替えとして認めたり、秀吉に許可をとって、鉄砲玉の原料である鉛を輸入し、それを他の大名に売ったりもした。

秀吉政権下で海外貿易の朱印状が交付されたのは現在のところ、加藤清正のみである。

⑥朝鮮出兵で大ダメージを受けた清正領

★日本軍は開戦1か月後に首都の漢城(ソウル)を陥落させ、2か月後には平壌に入城。3か月後には明との国境まで着いていたが、明の救援軍の前に戦争は長期化。

清正は食糧難により豊臣家からコメを借用せざるを得ず、石田三成の調達した兵糧米も借用した。しかし、この米は返却することができなかった。

この問題も後を引いた。

★苛酷な税のため、肥後を訪れた宣教師は「日本で最も貧しい地域」と記している。

⑦甘く見ていた朝鮮出兵

★開戦当初、朝鮮軍は米を置いたまま城を明け渡すなどで、食糧調達が容易であった。しかし、段々と調達ができなくなってきて枯渇していった。

⑧蔚山城の戦いの失敗で大きな亀裂が

★1597年12月~翌1月まで清正は蔚山城に籠城せざるを得なくなった。しかし、10日で食糧が枯渇。あやうく全滅するところだった。援軍に助けられたものの、明らかに清正の失敗であり、1万もの大軍を率いた経験がないことから来る。

この件は福原長堯という石田三成の妹婿から秀吉に伝わり、清正はけん責を受けた。この蔚山城の戦いも禍根を残すこととなる。

のちの「石田三成襲撃事件」を行った7人のうち、4人は蔚山城の戦いに参加している。

⑨朝鮮の役のもう1人のキーパーソン小西行長

★1558年、堺の大商人の次男として産まれる。
★父の影響でキリシタンであった。

⑩水軍の将として頭角を表す

★仕えていた宇喜多家が信長の傘下に入ったことから、秀吉のもとでも働いた。
★室津を所領し、瀬戸内海に影響を及ぼすとともに、秀吉軍において海軍大臣的な立場を担った。

⑪「キリシタン大名」の大きな経済的メリット

弾丸に使われる鉛や硝石は日本でとれにくく、輸入に頼らざるを得なかった。

そのためキリシタンであることは有利であった

1585年の紀伊の太田城攻めの際には海上から大砲を撃っている。イエズス会の協力もあったであろう。

⑫なぜ朝鮮出兵で清正ほどダメージを受けなかったのか

★清正が大ダメージを受けているのに比べ、小西行長はさほどダメージを受けていない。

これは堺周辺が小西一族で牛耳られていたからであろう。

⑬三成と行長の経済的な親交

★堺、博多での事業を通じて三成と行長は親友となった。さらに商人とのネットワークも強かった。これを清正らが妬まないわけがない。

清正と行長は領土が隣同士で、法華宗を信仰する清正が敵愾心をもち、度々領土問題を起こしていた。そのたび、三成が行長寄りに仲裁していた

★また、朝鮮の役の最中、清正は秀吉の怒りを買い、一度召喚されている。この折檻状の中に、「行長のことを町人呼ばわりした」というのも入っていた。

⑭経済的に無理があった朝鮮の役

★清正軍も行長軍も4割程度の兵を失う。日本軍としても20万人が派遣され、2万~5万人が死亡した。そのうえ、何も得るものがなかった。
★一方、家康は戦争に行かなかったために、その間に国力を蓄えることが出来た。
★ただ、秀吉も大陸侵略を急がないといけない事情があった。

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