こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「幕末年表⑫:1864年上半期」です。
「参与会議」は慶喜が久光らを「奸物」と罵り空中分解。
何の成果もないまま終了しました。
八月十八日の政変以降、反撃の機会を窺っていた長州藩および攘夷派志士たちですが、
新選組に計画を知られ(拷問による自白)、
池田屋に集結していたところを襲撃されます。(池田屋事件)
この件で新選組は全国にその名を轟かせることとなりました。
復讐に燃える長州藩過激派は御所へ侵入し、天皇陛下を連れ去る計画を立てます。
1864年(文久4年/元治元年)
1/15 | 家茂、京都に入る |
2/16 | 中川宮が参与を招いた酒席で徳川慶喜が島津久光らを罵倒(※1) ※横浜鎖港問題をめぐって、泥酔した慶喜(横浜鎖港賛成派)が久光ら(反対派)を「奸物」と罵り空中分解。 ※西郷、大久保らが「慶喜ではダメだ」と思ったのもこの時ではないか? ※久光にとっては中川宮と慶喜が接近したことも痛い。 ♨慶喜は「酔ったフリ」をしたが、これは「狙い通り」。 |
2/20 | 元治に改元 |
3/9 | 慶喜、参与辞任。 ※久光らも慶喜に不信感を持ち、相次ぎ辞任し、帰国。 ※慶喜は幕閣からも煙たがられ、諸侯からも不信感を持たれていた。 |
3/25 | 慶喜、禁裏御守衛総督(新設)に任命される。 ※横浜鎖港問題で破約攘夷を訴え、天皇の信任を得る。 ※参与会議は何の成果もなく崩壊。 |
5/20 | 家茂、江戸城に戻る |
6/5 | 池田屋事件。(※2) 新撰組、池田屋に集結していた尊攘派志士を襲撃。 ※早朝、「桝屋」こと古高俊太郎を捕縛。取り調べの結果、志士たちが京都を火の海にし、その混乱に乗じて孝明天皇を長州に動座する計画があることを知る。 ※新撰組はすぐ志士たちの捕縛許可を求めたが、会津藩の本音はこれ以上、長州藩の恨みを買いたくなかった。 ※池田屋に斬り込んだ新選組は会津藩兵を近づけず、手柄を独占。 ※会津藩は長州藩の恨みを一身に受ける。薩摩藩は久光が京都にいなかったため矛先がそれた。 |
6/19 | 列強各国、20日以内に長州問題に対して何らかの進展なければ行動を開始することを通告。 ※横浜鎖港に関しても重ねて抗議。 ※オールコックが2年の休暇を経て日本に帰任。 |
6/21 | 復讐に燃える長州藩兵、大坂に到着。(※3) ※48歳来島又兵衛は慎重論を唱える高杉晋作を面罵し、久坂玄瑞をなかば引きずるように連れて行く。 ※来島又兵衛は、尻込みする久坂を「臆病者は東寺の塔か天王山でも見物しておれ」と罵倒し、御所へ発砲。 →【幕末の英傑で打線を組んだ】 |
6/24 | 長州藩兵、伏見に入る。天王山にも陣を構える。 ※27日、来島又兵衛、天龍寺に入る。孝明天皇は長州藩兵の入京を認めない方針に。 ※「会津と長州の私闘」と決め込んでいた薩摩藩も会津藩とともに御所の警備に就く。 |
(※1)参与会議、崩壊!!
長州藩を排除した後は、有力者が集まって幕政に参加することに決まりそうでしたが、、、
(参与メンバー:徳川慶喜、島津久光、松平容保、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城)
春嶽とか宗城もヘボ。
ホント、私と一緒にしないで欲しいわー。
参与会議なんて要らないでしょ。
(天皇に頼まれたとは言え、もう帰るわ。)
こんな慶喜公じゃ日本を束ねるのは無理じゃ…
参与会議は主導権争いから崩壊します。
徳川慶喜はその後、「朝臣的」な立場から主導権を握ろうとします。
優秀で抜け目ないんだろうけど。
天皇が最も信頼しているのは私なんですよ。フフフ。
あの御方は公家と武家のハーフなんですもの。
【女系図で見る】
(※2)池田屋事件
勢力を回復する機会をうかがっていた長州藩は、1864年、京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていた近藤勇(1834-68)ら新選組によって京都の旅館池田屋で二十数名の尊攘派志士が殺傷された(池田屋事件)
「詳説日本史研究」p324
新選組の名が全国に轟いた。
八月十八日の政変でだいぶ恨まれてるのに…
こうした人間関係を把握して「銀魂」を見るべし。
(※画像はプリ画像より)
(※3)長州藩の反撃…
(長州藩は)池田屋事件に憤激し、藩兵を京都に攻めのぼらせた。
「詳説日本史研究」p324
天皇を長州へ連れ出すんじゃぁっ!!
長州をやっつけるんだ!
さらに孝明天皇も相手。
藩に援軍を求めた方がいいのでは…
高杉もビビって来ねえし。
臆病者は東寺の塔か天王山でも見物しておれ!
行くぞっ!!
さて、どうなることでしょう…