こんにちは。
本日ご紹介しますのは、『バテレンの世紀』第16章。
伊達政宗が支倉常長を遣いに出した、「慶長遣欧施設」を中心に。
江戸幕府とスペインは、お互いを警戒するあまり貿易が進展しませんでした。
そんな幕府を尻目に伊達政宗は支倉常長をスペインへ送り出します(1613年)。
しかし、当時、家康により「禁教令」(1612年天領、1614年全国)【コチラも】が出されていたことがスペインの耳にも届いたこともあって、実現しませんでした。
一方、オランダは徐々に南シナ海での覇権を握りつつありました。
平戸商館は交易としての実績は乏しかったのですが、ポルトガル船を拿捕する基地、あるいは日本人兵士の輸出拠点として有効に機能します。
太平洋を越えて
スペインは江戸幕府との交易の条件の1つに「オランダ人の追放」を訴えていました。
しかし、家康は当時、オランダが南シナ海の覇権を握りつつあることを知っていました。
ただ、当初、オランダは商売を全くわかっていませんでした。
日本では生糸が必要でしたが、オランダは象牙や香辛料などを持ってくるのです。
家康はオランダがポルトガルの代わりは果たせないと見抜きました。
もっとも、オランダは商売の実績は全くありませんでしたが、平戸商館は
ポルトガル船を拿捕する出撃基地、あるいは日本人を東南アジアのオランダ拠点に送り出す基地として機能します。
ちなみにスペインとの休戦条約はアジアでは無視されます。
相変わらずオランダ船はポルトガル船を襲い、その積み荷を平戸に置きました。
(1617年には中国船からも掠奪。海賊そのものじゃん・・・。)
また、職人、水夫からなる68人の日本人がジャワ島へ行った記録も残されております。
(「日本人は優れた力量を持ち、手当てはわずかで済み、米と魚があれば良い」とも書かれています。)
田中勝介
田中勝介についても記さねばなりません。
教科書にも書かれておりますが、日本人で初めて太平洋を横断した人物として名を残します。
(京都の貿易商人と言われています。)
家康よりスペインとの通商開始の命を受けてメキシコに行きましたが(1610年)、結局、通商開始には至りませんでした。
1611年帰国。
伊達政宗
一方、伊達政宗は交流のあったスペイン人に宣教師ソテロに「そそのかされる(?)」形でローマに使節を送ることを決定したのでした。
わしの目的は日本に地盤を築き、日本司教になることじゃ。
そのためにはスペイン国王とローマ法皇に取り入りたい。
使節の代表には支倉常長(はせくらつねなが)が選ばれました。
「慶長遣欧使節」です。
①「使い捨て」説
②「名誉挽回」説
どっちでしょう?
結果、「それなりに」歓迎されましたが、スペインでは既に家康が禁教令を出していたことが伝わっていました。
(常長が出発した1613年の時点で禁教令は「天領のみ」でしたが、到着時には「全国」になっていました。出発時は政宗も行けると踏んだのでしょうか。)
そしたら、政宗殿の領土の一部を差し上げマース!!
(嘘八百)
家康公と言っていることが違うぞ・・・。
そしてソテロはこんな調子だったので、慶長遣欧使節は「失敗」に終わります。
常長はマニラを経て1620年仙台へ戻ります。
7年の長旅で情勢は変わり、政宗は常長の帰国直後、領内に禁教を布告しました。
常長が棄教したかは定かではなく、その翌翌年に死にました。
え、誰だ、って?
秀忠ですよ、秀忠。2代将軍。
「隠れた名君」と言われていますが、隠れているつもりはないんですがね。
書籍紹介
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