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☞【明治維新は正しかったか?】『官賊と幕臣たち』(原田伊織、2016年)【読書メモ編】

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『官賊と幕臣たち』~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート~(原田伊織、2016年、毎日ワンズ)の読書メモです。

戦国時代の話含めて、実にわかりやすかったです。

また、「日本が植民地にならなかったのはパークスが急死したから?」という感想を抱きました。

以下、resumeと随想(♨)。

戦国時代の対外事情

戦国時代、九州方面の戦で日本人が生け捕りにされ、イエズス会やポルトガル人などに売られていたという事実があります。

日本は自国の歴史にそのような歴史があったとは認めようとしない傾向が強いですが、

奴隷の数は、数十万以上とも言われ、

これに怒った秀吉は「伴天連追放令」を出し、「人身売買停止令」も出しました。

江戸幕府にもおけるキリスト教禁止はこれが発端にもなっております。

キリシタンは迫害を受けたと教育されていますが、九州においては全く逆で、宣教師の扇動で、仏教徒が弾圧されていた事実もあります。(細川ガラシャは仲間の1人)

コチラの意見も。単純ではなさそう。】

もっとも秀吉軍が朝鮮で多数の朝鮮人を捕獲したのも事実です。

オランダの対日貿易独占

江戸時代の日本と関係が深かったのはオランダです。

江戸幕府開始時、イギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルが貿易の主導権争いを行いましたが、

最終的に1613年、家康は「切支丹禁令」を発令し、スペイン、ポルトガルを排除しました。

その後もオランダ人は徹底して宗教とは無関係なことをアピールして優位に立ち、

1623年のアンボイナ事件でイギリスが日本、東南アジアから撤退し、インドに専念すると、

さらに優位な立場になりました。

ちなみに1630年代にオランダ東インド会社によって拿捕されたポルトガル船は150隻でした。

1637年、島原の乱が起こると幕府はますます切支丹を警戒し、

オランダはさらに旧教勢力の恐ろしさを喧伝したことで、

1639年、家光によりポルトガル人が追放されました。

これでオランダによる日本貿易独占が完成します。

1641年、平戸のオランダ商館は出島にうつされましたが、オランダは日本貿易を独占する代わりに、幕府はオランダ東インド会社に情報提供を義務付けたました。(これを「オランダ風説書」と呼びます。)

幕府の対外協調路線

18世紀末からのイギリス、アメリカの伸張により国際環境は激変しました。

そして、1840年、アヘン戦争が起こります。

アヘン戦争で重要なのは銀の大量流出です。

当時、銀本位制だった清は、銀の減少により、銀銅の交換比率が急騰し、農民の銀の納税額は倍以上に膨れ上がりました。

イギリスのアヘン戦争に触れたなら、アメリカの対メキシコ戦争にも触れなければなりません。

アメリカはテキサスを併合した後、

1846年から「米墨戦争」を起こしますが、

後年、アメリカがイギリスに「清国から奪った香港を返還せよ」と迫った時、イギリスは「ならメキシコから奪ったカリフォルニアを返還しろ」と答えたと言います。

…少し話がそれましたが、このような幕末の体外危機に際して、老中阿部正弘が徳川斉昭を頼ったという話があります。

しかし、実はそうではありません。

むしろ暇を持て余してあれこれ外から口を出すのが厄介なので、内へ入れて飼いならそうとしたというわけです。

阿部正弘の行った、若手幕臣の積極的登用、長崎海軍伝習所設立、大船建造の禁の緩和など「安政の改革」は評価に値します。

ただ、意見を広く求め過ぎたことが問題だったでしょうか。

(規模の大小を問わず、集団指導体制で成功した例はあまりありません。)

幕府の外交交渉能力はと言いますと、実はかなり高く、ペリーと交渉を行った林大学頭復斎は、24項あったアメリカの要求を、12項まで減らしました。

ロシアとの交渉では川路聖獏が活躍します。

おそらく我が国が外交交渉で唯一、国境線を定めた事例ではないでしょうか。

また、安政大地震でディアナ号が沈没した際、超法規的に500人以上全員を上陸させ、軍艦を建造して帰国させるなどの支援も行いました。(この時、徳川斉昭は全員殺せ、と言った。

川路とロシアは友好関係にありましたが、だからといってロシアがアメリカと戦ってくれることはないと川路は見切っていました。

幕末日米通貨戦争

「幕末の三俊」とは岩瀬、水野、小栗を指します。

このうち、ハリスとオールコックが仕掛けた、米英との「通貨交換比率問題」で渡り合ったのが、水野忠徳でした。

幕末の英傑で打線を組んだ

しかし、米英は外国人殺傷事件に絡めて水野の罷免を要求し、

通貨のことなど何も知らない井伊が水野を罷免してしまったことで本格的な小判流出となりました。

これにより幕末期は極端なインフレーションに。

物価高のメカニズムなぞ庶民にはわからないため、

結果、幕府と外国人に批判の目が向けられました。

官と賊

幕末期、徳川官僚たちは粘り強く戦っておりましたが、彼らの足を引っ張ったのが尊攘勢力でした。

そして彼らにとって一番邪魔なのが孝明天皇です。

なぜなら、孝明天皇は、筋金入りの攘夷派であるとともに、頑迷なまでの大政委任論者だったからです。

そして、尊皇攘夷をスローガンとする薩長がイギリスと組み、幕府が対外協調外交を行うという、いびつな構図となっていきます。

この時点において西郷、大久保らは少数派に過ぎません。

そんな彼らが政権をとったのには「グラバー商会」の存在抜きには語れません。

イギリスは南北戦争でも弱い方に味方しているように、「転覆」が目的なのです。

そして新しい政権を自分たちにとって都合よくしようとするのです。

イギリスのやり方に危機感をもった他国が「四カ国共同覚書」を起こしましたが、効果は限定的でした。

ただ、日本も植民地になる可能性がありました。

それがならずに済んだのは1865年に恫喝外交のパーマストンが急死し、ラッセルに代わったことが大きかったのではないか、と考えられます。

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