~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「宇多天皇」時代。

宇多天皇と言えば、菅原道真です。

紛議でさんざん宇多天皇を悩ませた藤原基経が死亡した時、息子の藤原時平はまだ21歳でした。

宇多天皇は時平に配慮しつつも菅原道真をより重用します。

これがのちの「昌泰の変」につながります。

第59代:宇多天皇期(887年~897年)

【宇多天皇】…867~931年。光孝天皇第7皇子。皇籍を離れていたものの基経の後押しで天皇に就任。

藤原基経の政治ボイコットである「阿衡の紛議」も菅原道真の尽力で解決した。

宇多天皇の治世は「寛平(かんぴょう)の治」と呼ばれる。

※「滝口の武士」の設置、「猫好き」でも知られる。

887 宇多天皇即位。藤原基経、関白となる。

阿衡の紛議(~888)

※基経の関白任命を巡り、基経が宇多天皇にいちゃもん。
「阿衡」とは古代中国・殷の宰相で、地位は高かったが職務は持たなかった人物。
就任に際して「阿衡」という言葉を用いたために基経は職務放棄して宇多天皇を困らせた。
(国政を預かるレベルの人間としてはどうしようもない老害。)
最終的に宇多天皇に謝らせるが、この間に菅原道真が力をつける。

藤原基経】…836~891年。叔父良房の養子となり、応天門の変で伴善男らを失脚させる。876年には摂政、880年には太政大臣となり、884年には陽成天皇(57)を廃して光孝天皇を即位させた。光孝(58)・宇多(59)両天皇における最初の関白となり、娘温子を女御とするなど、藤原北家の権力を固めた。
891 藤原基経死亡
894 遣唐使廃止

※菅原道真の提案により。「大陸から学ぶものはない」とした。こののち200年は平和で国風文化が洗練される。→【という考えは、ちょっと古い。白紙に戻そう遣唐使という考えは白紙に戻そう:古代史講義
897宇多天皇第1皇子・醍醐天皇に譲位

滝口の武士を設置

武士名天皇(上皇)設置時期
滝口の武士宇多天皇890年ごろ
北面の武士白河上皇1086年
西面の武士後鳥羽上皇1200年ごろ

※滝口の武士は宇多が設置したが、のちに人事権は摂関家が握ることとなった。

♨覚え方として<たきにうたれて…>は秀逸と思われる。(た→き→に:滝→北→西、うた=宇多)

日本史ゴロあわせ:石黒本

遣唐使廃止

838年が最後の遣唐使となった。この時期より中国文化の影響は急速に薄まり、仮名文字が広まり、「国風文化」が広がった、というストーリーはわかりやすいが、どうやらそんな単純ではないみたい。

ちなみに古今和歌集を編纂した紀貫之が、序文を書いたのが904年

「やまとうたは ひとのこころを たねとして よろづのことの 葉とぞなれりける」

土佐日記を書いたのが935年くらい。実は、紀貫之と平将門は同時代人。

♨六国史は宇多天皇の前で終わっています。
遣唐使廃止によって、日本のことを中国に伝える必要性が薄れたためです。

藤原北家の他氏排斥事件

「薬子の変」で冬嗣が蔵人頭に任命されたところから藤原北家の台頭がはじまる。

順番名前就任年主な役職当時の天皇主な政変
冬嗣810年蔵人頭嵯峨天皇810年、薬子の変
良房858年摂政清和天皇842年、承和の変
866年、応天門の変
基経884年(正式には887年)関白光孝天皇/宇多天皇866年、応天門の変
888年、 阿衡の紛議
時平899年左大臣醍醐天皇901年、昌泰の変
忠平930年/939年摂政/関白朱雀天皇
実頼967年関白冷泉天皇969年、安和の変

<ふゆは よし もとつねっちゃおう 時 忠 ひらひら さあねよう>というのが石黒先生の作品ですが、

<冬の よしもと ひらひら さあねよう>というゴロはどうでしょう。

1点をもぎとれ!コチラも

宇多天皇と摂関家の本当の関係

「宇多には摂関家を潰す気がないし、摂関家は敵ではない」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

♨阿衡の紛議、菅原道真の登用などから、宇多天皇と藤原家は敵対していたかのような印象を受けるのですが、そうではないそうです。

この時代、王臣子孫の悪辣さが増していました。

彼らは地方で勝手に裁判も行っておりました。

宇多天皇はそれを禁止しましたが、それくらい収拾つかない状況です。

(中央の政変よりも、むしろ注目すべき?)

菅原道真

【菅原道真】・・・845-903。宇多天皇に重用される。「菅原道真」と「宇多天皇」はセットで覚えておく。 阿衡の紛議でも解決に尽力。901年の「昌泰の変」で藤原時平に追い落とされた。(藤原時平は次代の醍醐天皇と懇意であった。)学問の神様としても祀られる。

「白紙(894)に戻そう遣唐使」はあまりにも有名ですが、最近は「白紙に戻そう遣唐使」という考え自体を白紙に戻さないといけないみたいです。

また、wikipediaで知りましたが、母方は伴氏の系統なんですね。

伴氏=藤原氏のライバルでもあります。

一方で、こんな意見も…

★菅原道真は貴族たちが地方の豪族と手を組んで私腹を肥やすシステムに手を入れようとして追い落としにかかられた。京都の有力貴族は一方では国司となって私腹を肥やし、一方では富豪農民と結託して不正な収入を得ていた。こうして朝廷の財政は細くなっていった。 (↓)

お金の流れで読む日本の歴史

★編書に「類聚国史」(892)。

「六国史」を分類再編集したものというが、気が遠くなりそう・・・。

★百人一首では「菅家」という名前で選ばれています。

24:此の度は  幣(ぬさ)も取り敢へず  手向山(たむけやま) 紅葉の錦  神の随(まにま)に

⇒【百人一首は鎮魂歌?百人一首についてはコチラも

道真のライバル?三善清行

【三善清行】 (847~918)・・・914年、「意見封事十二箇条」を提出。菅原道真の対立候補であった。ライバルと言うよりは、むしろ清行が一方的に目の敵にしていたという感じ。900年には道真に隠居を勧めるが拒否される。

仁明天皇を批判。

三善家は何人か日本史に出てきます。

末法思想時代における 三善為康(1049~1139)は「拾遺往生伝」を遺しました。

また、初代問注所は 三善康信(1140-1221)です。

紛らわしいですね。

cf. 「日本往生極楽期」 は慶滋保胤(~1002)。有名人45人の死ぬ時について書かれた「極楽ガイド」。ちなみに父は陰陽師の賀茂忠行。父が安倍晴明を後継者としたことで息子は別の道へ。マイホーム取得を目指す「池亭記」なども著す。

往生要集」は、 源信(恵心僧都)。浄土に至るまでの念仏の方法を具体的に書いたところ中国にも逆輸入されてバカ売れ。結局は「南無阿弥陀仏」を唱えるだけ。

地方社会の荒れ具合

宇多朝は様々なところに末期症状が出始めた時代とも言えるらしい。(桃崎有一郎先生)

「儒教の<礼>思想は理想主義的で、中国でははるか昔から、人間の意地汚い欲望や本能を甘く見る点に弱点があると、指摘され続けてきた。儒学に傾倒した宇多や道真はその弱点をそのまま抱え込み、克服できず、地方社会を破綻に向かわせたのである。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

と、手厳しい。

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