藤原純友の乱
「ミイラとりがミイラに」。
藤原純友ら伊予の海賊は遣唐使廃止でリストラされた公務員たちであった。
【藤原純友】
もともとは藤原北家の出身。父の下で海賊退治を行っていた。
父の早逝後は伊予守の叔父の下で海賊退治。
しかし、新たに赴任した紀淑人が海賊たちを懐柔したため、手柄を横取りされた形となり、正当な褒賞を求めて暴れまくる(!)。
朝廷は官位を与えるも、主に部下が言うことを聞かず、最終的に源経基(?)、小野好古、橘遠保らにより征伐されました。
一時は大宰府も陥落させるほどの勢いだったのですがね。
【橘遠保】
?-944年。平将門の乱での防戦で功をたてる。のち、伊予警固使として瀬戸内海で乱をおこした藤原純友を討ちとり、伊予宇和郡をあたえられた。帰宅途中に斬殺された。
↓超日本史より
★藤原純友の乱を平定したのは伊予国の豪族、橘遠保。「伊予水軍」と呼ばれる「海の武士団」の統率者。伊予水軍の本拠地は広島と愛媛県の間の芸予諸島。ここは戦国時代における村上水軍の拠点でもあり、明治期には江田島海軍兵学校が設立された。
【小野好古】・・・884-968年。小野篁の孫、小野道風の兄。
日振島の地理はコチラ(wikipedia)。瀬戸内海はおろか、九州まで睨みをきかせることができるポジション。
【源経基】
917頃~961年。父の貞純親王が清和天皇の第6皇子のため六孫王と呼ばれた。賜姓源氏。
938年武蔵介として任国中、賄賂を要求して権守興世王と共に同国の土豪・武蔵武芝と争う。
平将門の仲裁でいったんはおさまったが、武芝の一派が経基の営所を包囲したことから、将門らが武芝に味方して自分を討つと思い京へ逃げ帰り彼らの謀反を朝廷に訴える。
このときの行動を「介経基、未だ兵の道に練れず」と『将門記』に述べられる。
のち将門の乱を鎮圧する征東軍に加わり、かたづくや西国での藤原純友の乱の追捕次官として西下。あまり役に立たなかった説。
♨とんでもなく横暴な受領だったという話もあり、源氏の祖とはいえ、あまりに評判は芳しくない。
♨五代前が坂上田村麻呂。田村麻呂の娘、坂上春子の血を受け継いでいる。
♨ちなみに息子の満仲は、
狩猟と殺戮に明け暮れて、気に入らぬ従者を虫などを殺すようで(中略)、主筋の藤原道長から「殺人の上手」と呼ばれた。(今昔物語)
なんてこっちゃ。
まとめ
いずれも地方武士が制圧した。
大唐帝国崩壊に伴う東アジアの秩序変化とも関連づけられる。
とはいえ、武士の台頭はまだまだ先。