こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「645年、乙巳の変」です。
過去には藤原鎌足と天智天皇が蘇我入鹿を宮廷で暗殺するところからが「大化の改新」と教わった気がします。
現在では解釈が進み、暗殺事件を「乙巳の変」、その後の政治改革を「大化の改新」と呼ぶように変わったそうです。
また、この事件の首謀者は天智天皇ではなく「孝徳天皇」だという話も。
以下、『古代史講義戦乱篇(2019)』第3講(成蹊大学教授、有富純也先生)を参考にさせて頂きました。
「乙巳の変」概要(日本書紀が中心)
★645年6月12日。外交儀礼の席で、蘇我倉山田石川麻呂が「三韓表文」を読む際に計画されました。(三韓=高句麗、新羅、百済)
★中大兄皇子、中臣鎌足は武装して機会を窺っていましたが、皇子の従者、佐伯子麻呂は緊張して入鹿を襲うことができず、石川麻呂も声が震えておりました。
★入鹿が不審に思い、石川麻呂に震えている理由を尋ねた瞬間、中大兄皇子、佐伯子麻呂が入鹿に斬りかかりました。
★入鹿は皇極天皇に「私に何の罪があるのか」聞くと、中大兄皇子は入鹿にが皇位簒奪計画があると述べ、暗殺の正当性を主張しました。
★皇極天皇は奥に入ってしまいます。入鹿は斬り殺されました。
★中大兄皇子は蘇我氏の反撃を予想して軍勢を整えましたが、入鹿の父、蝦夷は翌日、自邸を焼き、自決しました。これにて蘇我本宗家は滅亡しました。
★「日本書紀」は蘇我氏を悪役として書いています。そして、日本書紀以上の情報を得ることは難しいというのが現状です。
「大化改新虚構論」?
★かつてはこの政変は「大化改新」と一括されていましたが、現在では645年の政変そのものを「乙巳の変」と呼び、その後の一連の政治改革を「大化改新」と呼んでいます。
★戦後の古代史研究は大化改新虚構論が盛んでしが、出土した史料などから近年は大化改新の画期性を再評価する傾向にある。
★ポイントとしては大化改新と「乙巳の変」をセットとして考えるのではなく、一連の政争の一部として「乙巳の変」があったと考えることだそうです。
★蘇我本宗家滅亡は日本書紀が大袈裟に盛りすぎているように思えます。
640年代の東アジア情勢
★入鹿が殺された後、蘇我氏に近かった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が、「韓人、鞍作臣(入鹿の別名)を殺しつ」と述べています。この発言に対して、日本書紀では「韓政に因りて誅(つみ)せらるるを謂ふ」と注釈を入れています。
当時の朝鮮半島、東アジア情勢はどうだったでしょう。
東アジア動乱略年表
641 | 百済で義慈王が即位 |
642 | 義慈王自ら新羅へ侵攻、40以上の城を落とす 高句麗で泉蓋蘇文(せんがいそぶん)がクーデターを成功。高句麗王はじめ多くの貴族をも殺害。 |
643 | 新羅の善徳女王、百済の攻撃に対して金春秋を高句麗に派遣して援軍を求める ↓ しかし、高句麗はこれを拒否。逆に百済と結んで新羅を追い詰めようと試みる。 |
645 | 唐は 泉蓋蘇文 のクーデターを口実に高句麗征討を実行 ↓ いくつかの城は落とされたが、最終的には唐が撤退 |
647 | 唐 対 高句麗 またしても唐が撤退 |
648 | 唐 対 高句麗 またしても唐が撤退 |
649 | 新羅は親唐路線に切り替える 唐は女王交代を提案して新羅と関係が悪化していたが、方向転換 |
★640年代の朝鮮半島の混乱の原因は唐が北方政策に区切りをつけ、朝鮮半島政策を活性化させたことが最大の要因。
★石母田正氏は「大臣独裁の高句麗」、「国王専制の百済」、「貴族合議の新羅」と分類している。
★ヤマト朝廷は朝鮮半島の動乱に対して、これまで考えられたよりも敏感であった。
国内の動乱:643年、上宮王家滅亡事件
「乙巳の変」が有名ですが、「上宮王家滅亡事件」も政治主導権をめぐる争いとして同列でしょうとのこと。
★643年11月、蘇我入鹿が斑鳩に住む山背大兄王(聖徳太子息子)を襲撃した。
★蘇我本宗家と上宮王家の争い。
★朝鮮半島の動乱に対して、いち早く中央集権国家を構築しようと考えていたのが、蘇我入鹿であった。
★蘇我入鹿は古人大兄皇子を王位に就任させ、高句麗型の大臣独裁政権を狙っていたと考えられています。
【事件の背景】
★推古天皇時代は推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三頭政治により安定していた。
★彼らの死後、蘇我氏は田村皇子(舒明天皇)派(蝦夷ら)と、山背大兄王派(蝦夷の叔父ら)に分かれ、政局不安となっていた。
国内の動乱:649年、蘇我倉山田石川麻呂事件
同じく、「蘇我倉山田石川麻呂事件」も政治の主導権争いと言う点で乙巳の変と同列に考えるべきとのこと。
★改新政府の右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が、謀反の疑いを問われた。
★飛鳥まで逃亡し、自分が建立した山田寺で妻子らと自害。
写真はwikipedia。石川麻呂が建立した「山田寺」にあった「山田寺仏頭」。本尊は1187年、興福寺の僧兵たちに強奪されたと考えられています。
658年の「有間皇子謀反事件」も新政に不満をもつ豪族が背景にあると考えられる。【有間皇子:wiki】
国内の動乱略年表
592 | 崇峻天皇暗殺、推古天皇即位 |
593 | 推古天皇死去、境部臣摩理勢(蝦夷叔父)殺害、舒明天皇即位 |
642 | 皇極天皇即位 |
643 | 上宮王家滅亡事件 |
645 | 乙巳の変、皇極天皇退位、孝徳天皇即位 |
649 | 蘇我倉山田石川麻呂自害 |
655 | 斉明天皇即位(皇極天皇重祚) |
658 | 有間皇子(孝徳天皇皇子)謀反事件 |
663 | 白村江の戦い |
【古代史講義】