~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「聖武天皇」時代です。

奈良時代、といえば聖武天皇をイメージする人も多いのではないでしょうか。

小学生の頃は「聖武天皇=大仏を造るくらいの大人物」というイメージがありましたが、調べてみると「実はそうでもない」ということがわかり、全く印象が変わってきました。

僕が抱く新たな聖武天皇のイメージは、「陰湿、気弱、散財」。

長屋王のことを妬んで殺した「黒幕」説のほか、

藤原広嗣を恐れては逃げ、さらに藤原広嗣死後はその祟りを恐れて遷都しまくり、

そうかと思えば、大仏建立に国分寺・国分尼寺建築で散財しまくる。

(そして、そもそも大仏建立も行基のおかげ。)

聖武天皇の時期に天下の富の半分が消えた、と言われても仕方がありません。

第45代:聖武天皇期(724年~749年)

【聖武天皇】…710年~756年。第42代文武天皇の第1皇子。母は藤原宮子で妻が藤原光明子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰し、全国に国分寺・国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立した。ちなみに国分寺・国分尼寺は則天武后の影響。

しかし、遷都も多く散財。山上憶良「貧窮問答歌」に代表されるように農民の暮らしは楽ではなかったであろう。
娘の孝謙天皇に禅譲。

724 聖武天皇即位。

多賀城築城。太平洋側にも拠点が。
727 渤海国と国交開始
728 聖武天皇と光明子の子、基皇子死去。(※結婚11年目、待望の皇子であったが。)

★これが、のちに長屋王が呪詛したせいという戯言に。
729 長屋王の変がおこり、長屋王が自害

【長屋王】…676(?)~729年。…父の高市皇子は天武天皇の長男。本人は高市皇子の長男、天智天皇の娘を母に持つというサラブレッド。ちなみに叔母は元明天皇。背景に藤原四兄弟との争い。讒言のうえ、不比等の息子、宇合に屋敷を取り囲まれる、判決も出ないまま息子たちと自害。)

※息子たちは殺害されたという説もある。

日本史的意義としては藤原氏の権力が強くなった。(が、天然痘で4兄弟みな死亡したりとまだまだ不安定ではある。)
735 光明子が皇后になる(※史上初、皇族出身でないものが皇后に。

【光明子】…不比等の娘。
737 天然痘大流行。藤原四兄弟全滅

(※732年には飢饉、734年には畿内に大地震。こののち、皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐に留学していた吉備真備や玄昉が登用。)

【橘諸兄】…生き残った中で最高位であった皇族であったためにまさかの登用となった。新たな時代の始まりでもある。
740 藤原広嗣の乱がおこる

※藤原四兄弟の式家・宇合(うまかい)の息子。左遷に不満を表し、遣唐使であった玄昉・吉備真備2人を朝廷から除くよう上奏文を書いたところ、聖武天皇が反乱とみなし、九州で戦争に。2ヶ月で沈められ死刑となった。この乱は聖武天皇の恭仁京・紫香楽宮への転居の原因となり、またおりからの天然痘流行とあいまって国分寺・東大寺造営の直接の契機となった。九州で1万の兵を集めることができたのは天武天皇からの中央集権に対する反乱もあったと考えられる。(それに対して聖武天皇は九州人を兵に加えて、勢力を分断した。)

恭仁京(くにきょう:京都木津川)へ遷都(※離宮は紫香楽宮。これもそれも藤原広嗣の乱が影響。藤原広嗣は日本で初めての「怨霊」となった。)
741 国分寺(国分尼寺)建立の詔(※この頃、山上憶良「貧窮問答歌」)

★多くの民が塗炭の苦しみ。
743 墾田永年私財法が出される

(※三世一身法の限界。公地公民法に逆行。実際には荘園の開墾が進み、寺社や貴族が力をつける。)

★後追いで認めた、ってことかな。

大仏造立の詔が出される

(※行基。紫香楽宮で作っていたが、その前に難波に遷都。平城京⇒恭仁⇒難波⇒紫香楽⇒平城京。大仏は平城京でつくる。)
745 再び平城京に

724年、多賀城

「西の大宰府、東の多賀城」だそうです。

729年「長屋王の変」の首謀者は聖武天皇?

①715年に元明天皇が長屋王の子どもらを皇孫に加えるという勅令を出す。これにより長屋王は皇孫の父親であり、皇位継承の可能性が出た。

②元正天皇は以前、家政機関を共有していたことから甥の聖武天皇よりも長屋王に肩入れしていた。実際、膳夫王に皇位を継いでほしかった。

③聖武天皇が即位時、母である藤原宮子に対する呼称をめぐって、伝統を重んずる長屋王と最初の衝突。聖武天皇は専制君主的な一面がある。

④長屋王の子(膳夫王は順調に成長)に皇位を簒奪される恐れ。そのため光明子との間にできた子を生後30日で皇太子に。もっともこの時代の皇太子は天皇の補佐をしていたため前代未聞。

前年には聖武天皇の息子である基皇子が死亡。一方、長屋王は子供たちも順調に育つ。しかも、元明天皇と仲が良い。自分の母親の家格では到底かなわない。そんなコンプレックスと恐怖があったのではないかと考えられているが、真相はいかに。

♨さらに言えば、当時、藤原氏といえども軍隊を動かす力はなかったという話も。

河合敦先生の名著!変と乱の日本史:コチラも

737年、藤原四兄弟全滅。政権の中枢の移り変わりを覚える。

奈良時代における権力者の移り変わりを見ると、「藤原家」と「藤原氏以外」が交互に来ています。ここは、頻出です。

藤原不比等⇒長屋王⇒藤原4兄弟⇒橘諸兄⇒藤原仲麻呂⇒道鏡⇒藤原百川

覚え方としては、【コチラ】もありますが、自作をつくりました(↓)。

とにかく思い出しにくいと思われるのが藤原仲麻呂。藤原広嗣と混同しないように。

なが4匹たっちーなかまとみちで桃食う
不比等長屋王4兄弟橘諸兄仲麻呂道鏡百川
橘家と藤原氏はその後も何かと因縁が続きます。

740年、藤原広嗣の乱。その後の遷都5つを覚えよう。

【藤原広嗣の乱】(740年)

式家・宇合の息子である藤原広嗣は素行の悪さで大宰府に左遷され、吉備真備と玄昉に逆恨み。
しかし、実務能力は吉備真備、玄昉の方が100倍上。
広嗣は九州で挙兵するもあっという間に鎮圧された。

https://nihonshi1200.me/2020/02/29/200-hirotsugu/

聖武天皇は藤原広嗣の怨霊を恐れていろいろ遷都(恭仁→難波→紫香楽)。結局平城京に戻る(745年)。

♨恐れるのはしょうがないとしても、そして遷都するのはしょうがないとしても、それが日本史の試験に出るのは解せない。1年もいない都市を覚えてどうするんだ。【日本史のココがダメ:悪問多すぎでしょ

♨近畿在住の人には「紫香楽」とか名前でちょっと想像着くと思うけど、そうでない人には何のことやら。場所と含めて試験に出されるので注意したい。【日本史のココがダメ:近畿以外の人は不利じゃない?

※恭仁は奈良と京都の境くらいの木津川、難波はいわゆる大阪、紫香楽は信楽で、信楽焼のある滋賀の山の中。

♨藤原広嗣と藤原仲麻呂(次章)を混同しないこと。

藤原広嗣の乱で聖武天皇は三関の東に逃げている。東を恐れていたのは天皇家ではなく、藤原氏。藤原氏の権力と東北の反乱は見事にリンクという話は面白い。【消えた蝦夷たちの謎:関祐二より】

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「女帝の手記」より(←オススメ。)

743年、墾田永年私財法

「すべての始まりは、墾田永年私財法だった。(中略)この法令は、武士の誕生を準備する大事件だった。(中略)権力者は猛然と墾田を開発・集積し始めた。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

日本史的に重要なポイントは「墾田永年私財法」により、「荘園化」が進んだ、ということです。

何となく「百姓が頑張って自分の土地を切り開いた」的なイメージがあるかも知れませんが、「荘園化」を追認した、という方がイメージしやすいでしょうか。

百姓1人が頑張って耕すよりも、ある程度大きな組織で大人数でやった方が効率が良いので、大組織はこの法で領地を増やします。

そして、国司と結びつきます。

国司の任期は4年(6年の時期もあるけど)。徴税ノルマも厳しいうえに、任期後は栄転するかも知れませんが、失業するかも知れない。

それなら地方の有力者(つまり郡司、富豪百姓)と婚姻関係を結んじゃえ、となります。

当時は妻問婚が基本であり、妻の実家で暮らすのが普通でした。

4年後に失業しても地方有力者のもと暮らすことができれば生活に困らない。

また、地方有力者も、国司と婚姻関係を結ぶメリットは計り知れない。

なぜなら次の国司が無茶苦茶な要求をしてきた場合、婿のノウハウや人脈を生かして守ることができるからです。

しかし、これをされると中央は面白くありませんね。

本来、中央に届けられる税も、前国司で、地方有力者の婿殿のせいで減りますから。

それに彼らとその土地の百姓たちの私的な結びつきが強まれば強まるほど、中央の威厳が保てなくなります。

というわけで、聖武天皇は翌年、<国司と地方有力者の婚姻>を禁止しました

そして、称徳天皇の時代になると、「墾田永年私財法」自体もストップされます。

「墾田永年私財法も、有閑弓騎を広く集めて軍に組織する初めての試みも、聖武朝の出来事だ。(中略)聖武朝は、武士登場の原点と呼ぶにふさわしい。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

いずれにしても、この聖武朝の出来事が、武士登場との係わり合いがあることは面白いのです。

桃崎先生の書籍【コチラ】は、必読書です。

橘諸兄は息が長い。

【カリスマ私度僧:行基】

【行基】・・・668-749。私度僧(勝手に得度。民間布教。)でありながら、最終的に大僧正に抜擢され、大仏建立に尽力。
鑑真ではない。行基。

★行基の自発的結社を取り上げて、古代NGOについて論じた書【コチラ】では、行基を支持した「知識結」の母体は課税を忌避する先進地域の住人といいます。(僧尼になることは課税を忌避する有効な手段であった。)

「古代史における「浮浪・逃亡」とは貧窮農民の行動のみを指すのではない。むしろ国家によって把握されたくない富を築くに至った、新興の人々こそが「逃げる」のである。 」

という著者の意見から、今でいうタックス・ヘブンを思い浮かべました。

民間で大金持ちで、最後は大僧正に抜擢されて国家事業を行うというのは、なかなかの人生。

ひろゆきさんがデジタル庁長官になっていれば行基以来だったかも?

おまけ(文化史)

「法隆寺夢殿」は飛鳥文化と思いがちですが、聖徳太子に憧れた聖武天皇が造ったものであるため天平文化のものです。

★毎年秋になると、正倉院展が開催されます。正倉院宝物は756年、聖武天皇死後に光明皇太后が東大寺に寄進したものです。

螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)、 「樹下美人図」=「鳥毛立女屏風」(「とりげだちおんな」でも良い) が有名。

正倉院宝物の95%以上は国産。古代史講義:コチラも

樹下美人図。wikipediaより。

♨帽子がなければ判別難しいが、帽子をかぶっていないのが「薬師寺吉祥天像」(↓)。

次章は孝謙天皇(称徳天皇)