~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「8代将軍・徳川吉宗時代」です。

堀口茉純先生の「TOKUGAWA 15」(2011年、草思社)を参考にさせて頂きました。

改めまして面白い本だと思います。

さて、8代将軍を誰にするかは一悶着ありました。

対立したのは尾張藩と紀州藩。

この対立が、幕末の尾張藩主・徳川慶勝の行動に結びついたのではないか、と思ったりもします…

元はと言えば皆徳川家なんですが、派閥とかって大変ですね。

さて、堀口先生が吉宗につけたニックネームは「超ラッキー将軍(あるいはリストラ将軍)」。

それはどういうことなのでしょうか?

まずは年表を。

8代将軍:吉宗…超ラッキー将軍(あるいはリストラ将軍)

1684 紀伊藩2代藩主・徳川光貞の4男として出生。母は百姓の娘
1705 父、兄たち死亡により紀伊徳川家相続。綱吉から名前をもらい吉宗と改名。22歳

当時、紀伊藩は災害や江戸藩邸の火事、葬儀費用などで100億円くらい借金があったが緊縮財政と倹約で藩の財政危機を乗り越える。
1707 宝永地震・津波・富士山噴火
1711 長男誕生(のちの家重)。28歳。
1712 6代将軍家宣死亡。
1713 尾張徳川吉通25歳で死亡(毒殺説?)。その子、五郎太も3歳で急死。吉通の弟、継友が家督を継ぐ。
1715 次男誕生。のちの田安宗武(※英邁として知られる)。32歳。
1716 7代将軍家継死亡。徳川宗家を相続。8代将軍就任33歳

(※月光院(家宣側室)派がと天英院(家宣正室)派の争いが続く。)

『享保の改革』
1717 岡忠相を町奉行に登用。34歳。
1719 相対済し令
1720 江戸町火消設置。37歳。
1721 評定所に目安箱設置。38歳。
1722 上米の制(=参勤交代の緩和)。

幕領で定免法施行(※年貢額を固定)。

小石川養生所設置。39歳。

家康生誕180年記念(※熱烈な家康愛で自分のアイデンティティを保つ)。
1723 足高の制。身分が低くても登用。
1728 日光社参復活(※財政復活を物語る)。ベトナムから象が来る。45歳。
1729 天一坊改行処刑。

相対済し令廃止
1730 上米の制廃止。参勤交代を元に戻す。
1732 吉宗、徳川宗春(尾張藩主)を叱責

享保の飢饉

49歳。(※米の価格に振り回され、世間からは米将軍と呼ばれる。)
1734 諸国物産調べ
1739 徳川宗春に隠居・謹慎を命じる。

青木昆陽を登用。
1742 公事方御定書。(裁判や刑罰の基準を示す )

関東甲信地方大洪水。
1744 神田に天文台設置。

田畑永代売買の禁緩和

御触書寛保集成(法の集大成)
1745 隠居。長男・家重将軍就任。62歳。
1746 脳卒中で倒れる。63歳。
1751 脳卒中再発、死亡。68歳

財政問題はある程度の効果を得ることが出来たが米経済と貨幣経済の矛盾を克服するまでには至らず、農民抵抗も激化。

幕藩体制の限界も露呈したが、将軍主導の政治が行われ、幕権強化につながった点は評価。

「超ラッキー将軍」とは?

決して将軍にはなれそうもない出身でしたが、兄たちの死亡、家継の夭逝、尾張藩との政争に勝ったことで将軍になれたことからつけられました。

そもそも母は大奥の召使いなんですって。

(※ちなみに綱吉の生母、桂昌院も八百屋の娘と身分が低い。)

「リストラ将軍」とは?

大奥の女性の多くを「リストラ」したことからつけられました。

その数、4000人から1300人への削減と言われております。

しかも、美人はこれからも困らないだろうとのことで、美人を選んでリストラしたんですって。

ちょっと面白いですね。

享保の改革

一連の改革は「享保の改革」と呼ばれます。

名前から政策名が想像つきにくいので、覚えるのに苦労しました…

【相対済まし令(のち廃止)】…商業の発展により紛争は多発。しかし、これを「面倒くさいから、当事者で勝手にやって」としたのが1719年。さすがに猛反発を受け、1729年廃止。

【上げ米の制(のち廃止)】…1万石につき100石おさめる。その見返りに参勤交代を半年にすると。(※室鳩巣は反対していた。)1731年廃止。

【定免法】…年貢額を固定した。(⇔検見法)

【石高の制】…身分が低くても、在職期間だけ禄高をアップさせた。

【その他】…「漢訳洋書の輸入制限緩和」。これがもっとも役に立った?

ほか、町人の開発新田も奨励しました。(※その分、数年間は無税。)

一方、物価の統制には苦労します。

貨幣経済に転換すべきだった説もあります。

吉宗の時代から早くも「ロシア船問題」が出現していたのも注意です。【江戸幕府と国防