~只今、全面改訂中~

吉宗の時代を生きた人々。

青木昆陽、大岡忠相あたりは有名ですが、、、

杉田玄白は1733年生まれですので、その活躍時期はもう1つ後の時代です。

(吉宗の洋書緩和があったからこそ、その時代に活躍できました。)

【青木昆陽】

1698-1769。サツマイモが有名だけど、伊藤東涯に学んだ儒学者であり、オランダ語の普及に尽力した。

【大岡忠相】

1677~1751。旗本ながら登用された「大岡越前守」。刑を軽くして江戸庶民の評判をあげたと言われたりするが、ほとんどは逸話にすぎないらしい。1717年~南町奉行として活躍。

他、

  • 防火対策の強化のため町火消しを創設
  • 風紀の乱れを無くすため売春や賭け事の取り締まりを強化
  • 庶民の意見を聞くため目安箱の設置。結果、低所得者のための病院として小石川養生所を設立。

【田中丘隅(きゅうぐ)】

1662~1729。東海道川崎宿の名主であったが、50歳をすぎてから江戸で荻生徂徠に師事。民政に関する意見書「民間省要」を幕府に提出。これが評価され、足高の制により加増され、 幕命で荒川、多摩川、酒匂(さかわ)川の治水工事にあたった。

【荻生徂徠】

1666~1728。「経世思想」を広める。父は綱吉の侍医であったが、綱吉を怒らせてしまったことで、一時期上総へ。柳沢吉保に再登用されて戻った。赤穂浪士処断の時(1702)は「法にのっとり厳罰に処すべき」と献言。

綱吉の死後(1709)は幕府から離れ、江戸茅場町の自宅に塾を開き、山県周南、安藤東野、服部南郭、太宰春台(だざいしゅんだい)らの門人を育てた。→【服部南郭も準主人公として描かれている<マンガ日本の歴史>は改めてスゴイ!

吉宗の代(1716)で再登用され、政談」を発表。ただし、内容が厳しすぎて吉宗には届けられなかった(!)。フリーター禁止など書かれる。

♨松平定信の時代になると「寛政異学の禁」をくらう。理由は荻生徂徠の言説は朱子学に若干批判的であるから。

朱子学は孟子の性善説を継承し、個々人の道徳性を高めることを目標としているのに対して、徂徠はむしろ荀子の性悪説で、道徳性に頼るのではなくきちんとした制度や仕組みを打ち立てることを主張していた

→そのために、古代中国の言葉から学ぶべきという発想で<古文辞学>をうちたてる→吉宗の時代に朱子学は低迷

【石田梅岩】

1685-1744。吉宗とほぼ同世代。「正しい商人の道」を説き、「商人道」を説いた。代表作は《都鄙問答》(1739年)。 石田梅岩が18世紀初め頃だということを覚えてないと解けない問題は存在するのでチェック。

→【必見!武士道ではなく商人道を!コチラ

【室鳩巣】

1658~1734。侍講に用いられた儒学者。加賀前田家に仕え、藩命により木下順庵に学び、朱子学を信奉。のち、新井白石の推挙で将軍徳川吉宗の侍講となる。著「六諭衍義(りくゆえんぎ)大意」「駿台雑話」など。

♨対馬藩に仕えた雨森芳洲(1668-1755)も同世代人…【歴史検定2級感想はコチラ】)

♨彼らを輩出した木下順庵門下、ってスゴイですね… 

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