こんにちは。
「もう一つ上の日本史」、かなり良書だと思うのですが、日清戦争、日露戦争がメインとなる「世界に打って出る日本」編は非常に難しく感じました。
二、三度読んだだけでは、どうしても
「日清戦争は朝鮮を清から独立させ近代化させるため」、
「日露戦争はロシアが朝鮮を橋頭堡として日本に攻めてこないため」
に行なったという側面を否定し切れないのですよね・・・
本書では若干、日本の「非」だけに偏って書かれている気もするので、やっぱり吉川弘文館の近代史シリーズ【コチラ】を買わなくては、と思います・・・。
(朝鮮、清、ロシアの非の部分にも書いた方が良いと思うのですが、これはこの書籍が百田先生の日本国記を訂正するという書籍ですので、致し方ないか。)
どっちが良いとか悪いとかには興味がないのですが、ただ、事実が知りたいと思います。
以下、「世界に打って出る日本編」の印象に残ったフレーズで「打線」を組みました。
1右 井上馨も、クーデターへの関与を伏せて(p78)【コチラ】
2左 東学党の乱は2回あり、2回目が、日本によって鎮圧された(p83)【コチラ】
3中 善意やボランティアで国家予算の2倍もの戦費をつぎ込む戦争をする国はありません(p83)【コチラ】
4三 閔妃殺害事件にまったく触れずに、この時期を説明するのは不正確(p98)【コチラ】
5一 ロシアが朝鮮半島を支配下に置くことを具体的に企図したのは1902年から(p106)【コチラ】
6二 「バルティック艦隊」は世界最強だったわけではない(p115)【コチラ】
7遊 「脱亜入欧」を選択し、その延長上の外交政策が作り出した国際関係の結果が、日清戦争であり、日露戦争だった(p126)【コチラ】
8捕 「韓国併合」への道は、日露戦争開戦と同時に始まりました(p130)【コチラ】
9投 スペインがその初期において南米に行なったような植民地支配は、19世紀後半以降、行なわれていません。(p133)【コチラ】
①井上馨も、クーデターへの関与を伏せて(p78)
今回ご紹介しますのは、1884年の「甲申政変」です。
1884年、朝鮮で金玉均がクーデターを起こすも失敗。
背後では井上馨がクーデターを支援していた。
竹添公使(柔道で有名な嘉納治五郎の義父)が関与していたことは知っておりましたが、その黒幕は井上馨と知って驚きました。
朝鮮への影響力を強めようとしていた日本と清は最終的に日清戦争に至りますが、10年以上前から綱引きが行われていた、と理解して下さい。
日朝関係 1873~1885年
1873年9月13日 | 岩倉使節団、帰国 頑迷に開国を拒否する大院君に対して、西郷隆盛が使者となり外交を進めることを留守政府は決定しました。 しかし、帰国組がこれに異を唱えて論争が始まります。 結果、10月24日、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが辞職します。 ※西郷隆盛は武力討伐を意図していたわけではない。【コチラも】 ※大久保利通も内政問題が先と考えていたわけでもない。 ※征韓論者全員が辞職したわけではない。(大隈重信、福岡孝弟、谷干城ら) |
1875年9月20日 | 江華島事件 日本が朝鮮の沿岸測量などして「挑発」したことで、軍事衝突となりました。 ※当時の朝鮮はいわば「攘夷に燃えていた長州藩のような国」と考えるとわかりやすい。 ※測量を行なうペリーに対して幕府が攻撃を加えていたら、日本もアメリカと軍事衝突となっていた可能性が考えられる。 |
1876年2月26日 | 日朝修好条規締結(江華島条約とも言う。) 江華島事件の処理。 これにより朝鮮が開国。 政権を担っていた閔妃は日本から軍事顧問を招き近代化に着手することになる。 ※コレに対して清も朝鮮に介入。「属国」化を進める。そのため日本と対立。 |
1882年7月23日 | 壬午軍乱(壬午事変) 財政難により俸給が減ったことで兵士たちが蜂起【コチラも】。 閔氏政権の有力者や日本人の軍事教官らが殺害された。清は袁世凱を派遣してこれを鎮圧する。 大院君が政権を握ったが、袁世凱は大院君を捕らえて閔妃政権を復活させる(8月26日)。 ♨閔妃と袁世凱で取引があったのか?以後、閔妃は日本ではなく清側に傾く。 |
1882年8月30日 | 済物浦条約 日本は賠償金を請求。そのうえで軍の駐留を認めさせる。 (といっても、清が3000人程度であったのに対して、日本軍は200人程度。) ※一方、改革派であった金玉均らはさらに日本に接近した。 |
1884年8月5日 | 清仏戦争勃発 ベトナム支配権をめぐって、フランスと清が交戦。 |
1884年12月4日 | 甲申政変 井上馨外務卿の訓令を受けて漢城に帰任した竹添進一郎公使が金玉均を支援して起こったクーデター。しかし、作戦は失敗。 井上馨はクーデターへの関与を伏せて、公使館を焼き打ちにした朝鮮を非難。謝罪と賠償金を認める漢城条約を締結。 ※国内世論は対清強硬論が沸騰。 ※のち、下関条約締結(1895年)に際して李鴻章は暴漢に襲われる。(♨しかし、この原因を10年前の甲申政変時における井上馨に求めて良いものか?)【コチラも】 |
1885年4月18日 | 天津条約 日清双方の軍が引き上げることが決定。ただし、朝鮮から出兵要請があれば、通知をしたうえでの派兵は可能とされた。日本側全権は伊藤博文、清側全権は李鴻章。 ※日本と清では出兵していた数が違ったため条件は日本にとって有利であったか。清仏戦争のため清も妥協する必要があった。 ※清仏戦争も天津条約(1885年6月9日)が締結された。混同しないように。 |
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②に続く・・・【コチラも】