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★1651年、家光死去、家綱就任。当時、取り潰しなどで浪人中の武士が50万人いた軍学者の由比小雪は彼らを煽動して幕府を転覆を計画していた。(由比正雪は逮捕前に自害)

★しかし、事件の黒幕に紀州徳川藩:徳川頼宣が浮上。証拠は見つからなかったものの、その後は、江戸にて家綱の補佐役をさせられた。

★この件を契機に幕府はそれまでの武断政治を改め文治政治を目指した。浪人だらけでは治安が危ういからだ。

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「由比正雪の乱」としても知られる、1651年の「慶安の変」についてです。

あまり扱われることはありませんが、この件は江戸幕府が武断政治から文治政治へと切り替える分岐点となりました。

以下、河合敦先生の「変と乱の日本史」が秀逸でしたので参考とさせて頂きました。

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【背景】

★1651年、3代将軍:徳川家光が48歳で死亡し、家綱が後を継ぎました。

当時、数々の取り潰しにより浪人は50万人ほどいました

★この浪人たちに由比正雪が呼びかけ、全国的な争乱を誘発させようと企んだとされます。

※それにしても、密告者があまりに多い。

【徳川頼宣】

★1602年~1671年。徳川家康10男。幼少から将来を嘱望され、「南龍公」と呼ばれる。

★頼宣は秀忠の時代に、駿河から紀伊へ転封。(駿河は秀忠次男、忠長(デキスギ国松)へ。)

★頼宣は浪人を集め出す。幕閣は警戒していた。

【由比正雪逮捕!】

★幕府は由比正雪をマーク。しかし、正雪は生け捕りされる前に自害した。

★しかし、正雪の遺品から、頼宣との関わりが明白に。

【頼宣への尋問】

★尋問にあう徳川頼宣、幕閣を前に

「さてさて、めでたいことだ。もはや心配はいらない。これが外様大名なら疑いも出るであろうが、こと、徳川一族の偽の判物なら、その心配はない。これで徳川は安泰だ。」

と口上。

★一同は気勢をそがれた。判物は確かに偽モノと証明。すでに犯人も捕らえたと。

★「それでも疑うのであれば紀伊一国を返す」と頼宣。

★幕府は「家綱の面倒を見てもらうこと」を理由に9年間、江戸へとどめた。(監視目的で。)

【頼宣の鬱憤?】

家光の時代に御三家は完全に「家臣扱い」となった

★「徳川将軍家の守護神」を自認していた頼宣はそれに不満だったか?

【幕府の方針転換】

★この件により、幕府は武断政治から文治政治へと方針転換した。

★取り潰しなどで増えた浪人が団結すると危険なので、末期養子の禁緩和などの政策をとり、浪人を出さないようにした。