こんにちは。
今回ご紹介しますのは、『バテレンの世紀』17章。
「江戸時代初期における日本とイギリスの関係」についてです。
飛行機で行っても半日かかるような距離でありながら、
明治維新、日英同盟、太平洋戦争、とイギリスとの関係は実に深いですよね。
「島国」、「王室の歴史が長い」という共通点もあります。
日本で「最初に」活躍したイギリス人となると、1600年に漂着した「三浦按針」でしょうか。
三浦按針
1564年、イギリス生まれ。
オランダ船リーフデ号にて多くの乗組員が死亡する中でも生き残り、1600年、豊後に漂着しました。
イエズス会士、ポルトガル人らはあることないこと吹き込んで、家康に殺害すべきと助言しますが、何事にもすらすら答える按針を逆に家康は重用することになりました。
(※以後、家康の知恵袋となる。「歴史秘話ヒストリア」を観ると家康がカスに見えるほどでした・・・)https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/339.html
1613年、イギリス東インド会社の司令官セーリスが来日した際は、按針も家康と謁見の段取りをするなど手助けをしました。
按針は家康に帰国を願い出て了承を得ましたが、最終的に「セーリスが気に入らない」という理由で帰国しませんでした。
その後はイギリス商館で働くのでしたが、秀忠、家光らには冷遇されました。1620年、平戸で死去。
(ウィリアムなのかウィリアムズなのか、アダムスなのかアダムズなのか、カタカナ表記が書物により異なります)
按針は日本について、
「内政はよく整い、おそらく世界中でこの国ほど正しい政治の行なわれている国はない」
と述べています。
また、信仰については
「他を説き伏せようとせず、各人とも良心の命ずるままに従っている」
と述べております。
按針と日本、そして幕府の関係はこの時点では極めて良好だったと考えられます。
兎にも角にも家康から絶大な信頼を受ける按針のとりなしにより日本とイギリスの交易が開始します【コチラも】。
(もっとも、按針が漢文を読めるはずがなく、彼が通訳した日本語はムチャクチャなものでした・・・)
家康公に会う段取りつけてやったって言うのに、彼らのやったことと言えば、私とイギリス東インド会社の連絡を何度も邪魔したこと。
ひどいじゃないですか。
なんなんですか、あの、セーリスとかいう青二才。
あれで東インド会社の司令官よくやれますね。バカもたいがいにして欲しいです。
セーリスとの不和の原因は・・・
按針はセーリスを傲慢に感じ、セーリスは按針をオランダと通じているのではないかと疑っていました。
しかし、按針と東インド会社・司令官セーリスとは最初からボタンの掛け違えがありました。
というのは、按針は「浦賀に来るべし」と手紙を書いていましたが、その手紙は行き違いになってしまっており、セーリスは平戸に到着したのです。
もし通信機器がもっと発達していれば、こういうトラブルはなかったでしょうにね・・・
交易開始するも・・・
兎も角イギリス東インド会社と日本の間の交易がはじまりましたが・・・
問題は、日本人は英国のものなど欲していなかったことです。
日本人が欲しかったのは生糸、絹織物、鹿皮(羽織、袴、足袋に使用)、蘇木(染料)です。
そこでイギリス東インド会社は新たに生糸、絹織物を手に入れるルートを探しますが、難航します。
また、インドシナ、シャム方面はすでに日本の朱印船の商圏でもありました。
大砲などは購入されたものの、貿易相手という点でまだまだポルトガルが優位でした。
(大砲は大坂の陣で活躍。)
最終的にはオランダが選ばれるわけですが。
船乗り=荒くれ集団
そもそも、極東に行ってみようなんていう船乗りは、「普通」ではありません。
イギリス東インド会社の乗組員たちも例外ではありませんでした。
日本へ到着するや積み荷を盗んで勝手に上陸して女郎のもとへ言ったり、
禁止しても脱走して野外で飲んだくれたり、
おまけに決闘したり。
消えるものもいたので欠員補充に、日本人が補充される始末でした。
1604年、日本vsイギリス?
ちなみにイギリスは、1604年、日本へ向かう航路を開拓中、マレー半島沿いのパタニ沖にて日本商船と死闘を演じております。
(船長は戦死。)
これが最初の日本人イギリス人の戦いでしょうか?
江戸時代初期、三浦按針のとりなしで日英の交易が開始。
イギリス製の大砲は大坂の陣で使われたが、
英国は日本の欲しいものを手に入れることができなかった。