こんにちは。
今回ご紹介しますのは、昭和史講義『§13.日米交渉から開戦へ』(森山優先生)です。
ものすごく勉強になりました。
もし公開講座をやっているとすれば、森山教授がいらっしゃる静岡県立大学まで聞きにいきたいとすら思いました。
【これまでの理解】
★米国は第2次世界大戦に参入すべく、ハル=ノートを日本につきつけ、真珠湾攻撃を誘発させた。
【新たにまとめると】
★野村吉三郎・・・「日米諒解案」でハル4原則を伝えず。素人外交など揶揄される。
★松岡洋右・・・「日米諒解案」にへそを曲げ、より強硬にした「改定日米諒解案」を提出。米国からの意見で第3次近衛内閣で外される。
★日本・・・南進政策および三国同盟を締結。(英米を刺激)
★関東軍・・・関特演により対ソが現実的に。(ソ連が日独に攻撃されて降伏すると英米は苦境に陥る)
★近衛文麿・・・途中で投げ出す。
★東条英機・・・中国撤兵に反対して近衛内閣総辞職に。その後、首相を任される。
★海軍・・・開戦容認に転じる。
★東郷茂徳・・・避戦に向け努力するも最終的にあきらめた。
★ハル国務長官・・・ハル=ノートとともに対日妥協案を出す予定であったが、結局、出さず。戦争覚悟。
【年表】日米通商航海条約失効(1940年1月)~日米開戦(1941年12月)
1940年1月 | 日米通商航海条約失効。 |
1940年7月 | 石油、屑鉄、鋼などの重要物資が輸出統制品目に加えられた。 |
1940年8月 | 航空用ガソリン(87オクタン以上)を禁輸。 |
1940年9月 | 屑鉄を禁輸。 ※日本は三国同盟締結。 【コチラ】 |
1941年4月 | 16日、野村吉三郎米国大使より「日米諒解案」が日本へ提出。 |
1941年5月 | 12日、松岡洋右により「改定日米諒解案」が米国へ提出。 |
1941年6月 | 22日、独ソ開戦。【コチラも】 |
1941年7月 | 5日、新たに50万人召集が決定、関東軍特殊演習が行われる。 18日、松岡洋右を放逐して第3次近衛内閣。 26日、在米日本資産の凍結。 |
1941年8月 | 1日、対日石油禁輸措置。【コチラも】 |
1941年9月 | 6日、御前会議。 |
1941年10月 | 日米両巨頭会談実現の話はまとまらず、16日、近衛はついに内閣を投げ出す。 |
1941年11月 | 1日、連絡会議。 18日、野村・来栖両大使とルーズベルトの会談。 26日、ハル・ノート。 |
1941年12月 | 8日、真珠湾攻撃。日米開戦。 |
【日米通商航海条約失効】
★アメリカは対日経済制裁をいつでも実施可能となっていた。
★重要資源の多くをアメリカから輸入していた日本は対米関係の修復は緊喫の課題であった。
【日米交渉の開始】
★アメリカは対日屑鉄の禁輸などを行い、日本は三国同盟を締結するなど日米間の対立が深まる中、日米交渉が開始。
★民間からはじまった「素人外交」であること、結果として開戦を招いたとして戦後、批判的であった。
【日米諒解案】
★たたき台であったが、野村吉三郎大使が本国をミスリードする送り方をする。
★ハル4原則など日本側が受け入れがたい前提条件を伝えなかった。
★日本側は日米諒解案をアメリカの意見と誤解した。
※この案が近衛に届いたとき、すでにルーズヴェルトとハルがこの案を認めているという誤解が生じていた。
(『総力戦のなかの日本政治』:2017年)
★満州国承認、蒋介石への勧告、南方資源獲得への協力などに狂喜した。
【松岡洋右の改定案】
★日ソ中立条約をひっさげて、アメリカと力の外交を展開しようと考えていた松岡は帰国後、筋違いの案にへそを曲げる。
★さらに日本側に有利とした改訂版を提出。
★しかし、これでは交渉が成立しないと危ぶんだ野村はこの松岡案を米国にすべて伝えなかった。
★アメリカからの回答も、交渉の成立を願うあまり、本国にすべて伝えなかった。
★これらにより混乱に拍車がかかる。
★さらに松岡外相を忌避する文章も入っており、交渉はさらにこじれる。
【独ソ開戦がもたらしたもの】
★ソ連がドイツに勝つなら、アメリカは日本との妥協を急ぐ必要性が薄れる。
★ドイツがソ連に勝つなら、枢軸国の力はさらに強大になってしまう。
★アメリカは対日妥協から強硬路線へシフト。
★独ソ開戦に際して、陸軍は「北進」論が勃興。
★「北進」論と「南進」論がせめぎあう。
★結局、両論併記が国策となる。南進は、あくまでも英米と決定的対立に至らない範囲での南進である。
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【幻の北進論】
★最後まで北進論は実行されなかった。
★極東ソ連軍の兵力減少がなかったからである。
★従来の研究では北進論が与えた影響は軽視されていたが、陸軍にとって主敵はソ連であり続けており、目標をソ連からアメリカに切り替えたのは1943年9月からである。
★資源がほとんどないことなどを理由に海軍は対米開戦後も陸軍の撃ソ論を牽制し続けた。
↓「北進すべきだった」とも。
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【南部仏印進駐と石油の全面禁輸】
★南部仏印進駐が英米の強烈な反対を引き起こすとは考えていなかった?
(♨フィリピンやマレーが射程範囲内になることから批判は受けると思っていたであろうが、対日石油全面禁輸となるまでは思っていなかったか・・・?)
★海軍中堅層が日本を対米戦に誘導するために南部仏印進駐を推進したという説もあるが、結果論の色彩が濃い。
(♨陸軍は田中新一らの北進論を避けるために南進したという説【コチラ】海軍中堅層の作戦はたしかに評判が悪い。【コチラ】)
★アメリカは代金の決済方法を示さず、結果的に対日全面禁輸となった。
★資産凍結がなぜ全面禁輸となったのかは現在まで議論が続いている。
(♨【コチラ】では対日強硬派によって行われたとのこと。しかし、そんな重要な国策を大統領に知らせずに行えるのか?)
★ルーズヴェルトやハルは全面禁輸を9月まで知らなかったという。
★ルーズベルトの意思説、世間の圧力説などもある。
【近衛辞職】
★近衛は両巨頭会談実現を訴える。ルーズヴェルトも会議に乗り気で期待を抱かせた。
★しかし、対日強硬派の反対などもあり、実現せず。
★近衛は譲歩案をまとめるが、東条陸相は受け入れず、ついに総辞職へ。
★次期内閣には東久邇宮が想定されたが、皇族内閣で開戦して敗北した場合は累は天皇家に及ぶため実現せず。
★組閣の大命は東条英機陸相に降下した。
【御前会議】
★前日は杉山元に戦争に対する見通しの甘さを追及した。
★天皇は統帥部が交渉成立の見込みを無視して戦争に持ち込もうとしていると疑っていた。
【東条英機】
★近衛は中国撤兵を条件としようとしたが、これに東条陸相が反対。
★第3次近衛内閣を退陣に追い込んだ張本人が組閣するということは戦争を志向したと考えるのが普通であろう。
★しかし、撤兵が実現できるとすれば東条しかいない。
★東条への大命降下にはこのような判断が存在していた。
【統帥部】
★天皇は国策の再検討を命じたが、政府は再検討したものの、統帥部は結論を全く変えなかった(!)。
(「日本という国に日本と陸軍という2つの国があるのでは到底うまくいくはずがない」と阿部信行が言ったのも頷ける。)
【連絡会議】
★11月1日の連絡会議は16時間にも及んだ。
★前内閣まで海軍は避戦の重要な担い手であったが、嶋田繁太郎海相は開戦容認に転じる。鈴木貞一企画印総裁も物資の面からの長期戦の遂行は可能と立場変更。
★東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相は開戦に反対。
★結果として、まず外交交渉、それが不調の場合は開戦という論を採用。
【東郷茂徳】
★野村、来栖両大使が独断でより譲歩した案を米側に提出したことを叱責。
★豊田前外相のハル4原則容認を撤回した。
★避戦に努力したといわれる一方で、最終的に開戦になってしまったことから東郷の評価は分かれる。
【ハル・ノート】
★日本の中国・仏印からの撤兵、蒋介石政権以外の中国政府の否認、三国同盟の事実上撤廃というもの。
★ハル・ノートは戦争になるのは当然としたものの、米英はいまだに戦争準備が整っておらず、ハルも直前まで対日妥協を考えていたという説もある。
★日本の甲乙両案(甲:包括案、乙:南部仏印からの撤兵と通商再開のバーター案)とも暗号解読により知られていた。
★3ヶ月の期限付きで日本軍が南部仏印から撤兵すれば資産凍結を解除して一定の物資を供給する内容の暫定協定案があり、ハル・ノートとともに日本側に渡される予定で、各国大使には内示されていた。
★現実には前日に暫定協定案の提示をあきらめた。
【なぜ暫定協定案は渡されなかったか】
★各国の非協力的態度に嫌気が差したとハル自身は述懐している。
★他の原因としては、①中国やイギリスの反対、②ヘンリー・スチムソン陸軍長官がもたらした日本軍の大兵力南下の誤報、③中国が妥協案をプレスにリークしたことをハルが嫌った、などなど。(①はあったとしても影響した可能性低い)
★いずれにしてもすでにアメリカが交渉による戦争回避をあきらめ、日本に戦争をしかけられる選択肢をとったことは確かである。
(♨世の中、愛国者ばかりではない。愛国者は国土が焦土となることを避けるが、全員が愛国者ではない、というのは【コチラ】)
【真珠湾陰謀説】
★アメリカの目は東南アジアに注がれていたため、奇跡的な成功をおさめた。
★真珠湾におけるルーズベルト陰謀説はアメリカ共和党を中心に幾度となく出されているが、それを直接的に立証する史料は現在に至るまで示されていない。
★しかし、何らかの陰謀があったと思っている人は日米ともに一定程度存在していることも事実である。
★もちろん、ルーズベルト、アメリカ政府首脳が日本に最初の一弾を撃たせたかったことは事実である。
★陰謀がなかったことを立証するのは困難であるので、今後も陰謀論が出るであろう。