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☞『昭和陸海軍の失敗』(2007年、文藝春秋)~海軍編プロローグ~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『昭和陸海軍の失敗』(2007年、文藝春秋)の「海軍編プロローグ」です。

1868年に6隻ではじまった帝国海軍は、わずか40年で世界第1級の海軍になりました。

海軍の歴史は日本近代化の歴史とも重なります。

英国
「イギリスが育てた諸海軍のうち、日本海軍は最高傑作である。」

ところが、日露戦争から40年後には太平洋の藻屑となりました。

なぜ、それほどまでに落ちてしまったのかがテーマであります。

【大正~昭和海軍の歴史】

1905 日露戦争後、米国を仮想敵国として「八八艦隊」建造計画。(※1)
1921 ワシントン軍縮会議。「条約派」と「艦隊派」に分裂。加藤友三郎のイニシアチブにより戦艦は対英米6割に落ち着く。(※2)
1927 美保関事件。激しい訓練で衝突事故が起き、109人が殉職。(※3)
1930 ロンドン軍縮条約。補助艦にも制限。(※4)
1933 大角岑夫海相(24期)による「大角人事」。条約派の中心人物が次々と放逐。(※5)
1934 ワシントン条約の2年後の更新を破棄宣言。(※6)
1940 日独伊三国同盟締結。
1941 真珠湾攻撃。

(※1)戦艦、巡洋戦艦が各八隻ずつ。

(※2)条約派は加藤友三郎海相(7期)、岡田敬介(15期)ら。艦隊派は加藤寛治(18期)ら。艦隊派をバックアップしたのが東郷平八郎伏見宮博恭王ら。彼らは7割に固執。(しかし、この「7割」にはあまり根拠がない。)

(※3)「軍縮はあっても、練習に制限はなかろう」と東郷平八郎が言ったことから、「月月火水木金金」と猛訓練していた矢先の事故。

(※4)全権は若槻禮次郎元首相、財部彪海相(15期)。艦隊派は野党の政友会に働きかけて、「統帥権干犯」を持ち出して浜口雄幸内閣を攻撃。もっとも、犬養毅、鳩山一郎(政友会)らが党利のために海軍を利用した面もあり、政治家にも問題がある。海軍側の仕掛人はおそらく軍令部次長の末次信正。

(※5)条約締結に尽力した山梨勝之進(25期)、堀悌吉(32期)らが排除。ほかにも谷口尚真(19期)、左近司政三(28期)、坂野常善(33期)。堀は「海軍始まって以来の英才」と言われていた。勝てない戦争に突入したのは戦意旺盛な単細胞だけが残ったためとも。山本五十六も財政面からの問題を諭す大蔵省の賀屋興宣を殴ろうと脅すなど、艦隊派である。

(※6)前年には国際連盟も脱退していた。

【海軍兵学校】

★海軍は間違いなくスーパー・エリートでした。「軍艦の扱い方」から「国際法」、「国際マナー」など全てを学びました。陸軍の1/3くらいの所帯なのでより人間関係が密でもありました。

★また、軍艦を外国から受け取る際は艦長から水兵までが現地へ赴きました。そのためん、水兵レベルまで相当数の人数が海外経験を積んでいました。

【軍令部】

海軍省が内閣に従属するのに対して「軍令部」は天皇直属でした。1933年より権限強化されます。

昭和中期からの軍令部総長
⑮伏見宮博恭王(1932.2.2-)
→⑯永野修身(1941.4.9-)
→⑰嶋田繁太郎(1944.2.21-)
→⑱及川古志郎(1944.8.2-)
→⑲豊田副武(1945.5.29-)。

【海相】

軍令部が軍令を担当し、海相は軍政を担当しました。海軍内で唯一、政治に関わるポジションです。

昭和中期からの海相
大角岑夫(1931.12.13-1932.5.26)
→岡田啓介(1932.5.26-1933.1.9)
→大角岑生(1933.1.9-1936.3.9)
→永野修身(1936.3.9-1937.2.2)
→米内光政(1937.2.2-1939.8.30)
→吉田善吾(1939.8.30-1940.9.5)
→及川古志郎(1940.9.5-1941.10.8)
→嶋田繁太郎(1941.10.8-1944.7.17)
→野村直邦(1944.7.17-1944.7.22)
→米内光政(1944.7.22-1945.12.1)

米内の後を継いだ吉田は三国同盟のストレスで自殺未遂のち、辞任します。後を継いだ及川はそれを翻すことなく三国同盟に賛成してしまいました。

★及川古志郎は重要な場面で2度、責任を放棄しています。1回目は三国同盟締結時、2回目は開戦前の近衛私邸で行われた荻外荘会談です。この会談では近衛からも陸軍からも「海軍は戦えないと言ってくれ」と言われていましたが、それだと予算がとれないと思って言いませんでした。

【真珠湾1年前の開戦準備】

★また、嶋田にしても永野にしても「おそろしいくらい自分で物事を決めない」と評価されます。代わりに決めていたのは、岡敬純(39期)、富岡定俊(45期)、高田利種(46期)、石川信吾(42期)といった、駐米経験のない対英米強硬派でした。

★1940年10月1日、彼ら強硬派の主導で日露戦争以来となる「出師(すいし)準備(=戦争準備)」が出されました。海軍の場合、この準備を始めると後戻りするのも大変な状態になります。山本五十六は石川信吾を名指しで批判しましたが、おとなしい及川は何もできませんでした。石川は1931年の段階で既に日米戦争を企図していたと言われております。

【悪名高い第一委員会】

★1940年12月には海軍中央に「第一委員会」ができました。富岡、高田、石川をはじめ全員が対米強硬です。陸軍の南部仏印進駐にしても、しり込みする陸軍を突き動かしたのはこの委員会であったりもします。発足以後、海軍の政策はこの委員会主導で行われました。

★「だらしない幹部」と「血気にはやる中堅将校」と言う組み合わせでした。

難局に無難な選択なつもりで無能なリーダーを選んでしまうのは悪癖

【武士道精神の弊害】

★潜水艦は輸送船を狙うべきでしたが、戦争に美学を持ち込み過ぎでした。軍艦攻撃を優先させたのは軍令部の要求で、「軍艦攻撃は駆逐艦に見つかってしまうので通商破壊に変更したい」と上申すると「国賊」呼ばわりもされました。

★また、戦艦撃沈なら60点、商船なら7点、という評価基準も問題でした。

★補給の重要性を理解していないのは陸海軍ともに日本軍の悪弊です。総力戦と言う概念が遂にわかりませんでした。

★作戦通りにぴったり等間隔に並ぶと相手にとっては狙いやすい状態になります。律儀で生真面目過ぎなところは仇にもなりました。

【人事について】

★航空艦隊のトップがなぜか水雷戦専門の南雲でした。空母機動部隊の考案者である小沢治三郎(37期)こそ適任と思われます。年功序列人事のせいです。ちなみに参謀の源田実は30代半ばでトップにするには若過ぎと判断されました。国運を賭けた一戦にあまりにお役所的でした。(ただし、残念ながら現在でもそういう人事は多い。)

ミッドウェー海戦「直前」も恒例の人事異動があり、混乱がありました。真珠湾時が小沢、ミッドウェー時が山口多聞であれば歴史は変わっていた?

★名将は駆逐艦などの艦長に多いです。花形部署ではなかったが現場でたたき上げた戦術勘は素晴らしく、「キスカ撤退作戦」の木村昌福(41期)、ドラム缶移送中にたまたま米艦隊と遭遇し、大勝利をおさめた「ルンガ沖夜戦」の田中頼三(41期)(なぜかその後司令官解任。)などが挙げられます。ちなみに木村の海軍兵学校時代の成績は118人中108位でした。

キスカ島撤退作戦はコチラ

★ミッドウェーの敗戦後に山本を更迭する選択はあっても良かったと思いますが、すでに英雄扱いされていたことで無理だったでしょう。

いろんな話が載っており、面白かったです。

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第1章:東郷平八郎・加藤友三郎編はコチラ