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☞【平安前期まとめ】『平安京の成熟と都市王権の展開』(古代史講義10)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「平安京の成熟と都市王権の展開」

古代史講義第10講(国士舘大学文学部准教授、仁藤智子先生)のテーマです。

ほんの15ページの文章にして、平安前期のまとめのようであり、これ以上短く言い表すことなどできないと感じるくらい名文の連続でした。

一部だけ紹介させて頂きます。

9世紀は古代国家の転換期にあたり、それに対応するために変革が必要であった。

「格」は律(刑法)令(行政)の補足改定であり、「式」はその施行細則である。

平安時代は「三代格式」として「弘仁格式」(820年頃成立)、「貞観格式」(869年、871年頃)、「延喜格式」(927年頃成立)が知られる。

「延喜格式」以外は現存していないが、他史料から考えるに、「弘仁格式」もかなり立派なものであることが推測される。

時代に合わせて法律を変える必要があるのは当然のことですよね。

ただ、どのタイミングで何を変えるのか、ってすごく難しいと思います。

平城天皇はのちの騒動で過小評価されているが、実に思い切った国政改革を行った。

平安時代初期、弘仁格式編纂期の改革者として「平城天皇」(へいぜいてんのう)があげられる。

のちの騒動【コチラ】や在任期間の短さ(4年間)で過小評価されがちだが、思い切った国政改革を行った。

たとえば806年、畿内と西海道を除く六道に観察使を置いたこと。これにより中央の政治を地方に反映させた。

また、官司を統廃合することで大規模な官人報酬削減を行うなども敢行した。

ほか、禄制改革も実施。

こういった国政改革の流れは嵯峨天皇、淳和天皇にも引き継がれ、王権の強化につながった。

天皇と太上天皇の関係を可視化するために 朝覲行幸(ちょうぎんぎょうこう)が行われるようになった。

朝覲行幸とは年初めに「天皇」が「院」を訪問して臣下の礼をとることである。

この制度は、810年に「平城太上天皇の変」の1年前の809年、嵯峨天皇により開始されたとされる。

いずれにしても院を家父長とする「イエ概念」が醸造された。

♨「院」というと白河天皇のイメージが強いが、決して彼が始めたものではない。

「固関(こげん)」の有用性は再認識された。

壬申の乱藤原仲麻呂の乱の時に有効に機能した「固関」。

桓武天皇の時に廃止されていたが、「平城上皇の変」の時に復活し、上皇の東国入りを阻止することに成功した。

反乱の勃発時や天皇、またはそれに準じる人の没時に固関は行われるが、幕末まで細々と続いた。

通常は、

①伊勢の「鈴鹿関」、
②美濃「不破関」、
③越前「愛発関(あらちのせき)」のち近江「逢坂関

をさす。

しかし、842年の承和の変では従来の三関だけでなく、平安京周辺の宇治山崎、山陰道の入り口である大枝(おおえ)、北国街道や若狭街道のショートカットコースの要衝である大原(時には龍華和邇)なども警固された。

大枝にしても山崎にしても現在でも交通の要衝。道路ができるところというのは、地理的要因が深く関わっていると思われる。

のち、和邇、逢坂、大枝、山崎は平安京に入ってくる鬼気を食い止め、邪気を追い出す「陰陽道祭祀」の場所として考えられるようになる。

p192より。このようにして平安京を中心として同心円的な空間認識が形成されていった。

清和天皇即位を摂関政治の出現と見るのは時期尚早。陽成の退位と光孝の擁立こそ転換点である。

858年、文徳天皇の早すぎる死により、清和天皇と言う幼帝が生み出された。

そのため「摂政」であり、「関白」などの機能が創設されたが、これを「摂関政治の幕開け」ととらえるにはまだ早い

清和の子である陽成は若くして退位を迫られ、老齢の光孝天皇が即位した。

この時期こそ転換点だ。

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