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☞【カリスマ世界史講師が日本史を語る】『世界史とつなげて学べ 超日本史』(茂木誠、2018年、KADOKAWA)【中】

道長が望月の歌(1016年)を詠んでいる最中にも刀伊は日本へ向かって南下しており、1019年、対馬襲撃。村々は焼かれ、住民は拉致されるか殺害され、牛馬はむさぼり喰われる。命からがら脱出した対馬守の報告により大宰権師・藤原隆家(道長に政争で敗れた伊周の弟)は各地の豪族、海賊を招集。70歳を超えた老将・大蔵種材が彼らを指揮し、見事に刀伊を迎撃する。

時の大納言・藤原公任は「これは私闘であり、政府は関知しない。恩賞は不要。」と斬り捨てる、権大納言・藤原実資が「そんなことでは誰も戦わなくなる」と反対意見を述べ、最終的に公任も賛成に。しかし、この大事件の後も、藤原氏は権力闘争と私腹を肥やすことに明け暮れるのだ。【コチラも

以下、読書メモ。【前編はコチラ

7.日本史を東アジア史から分かつ「武士の登場」

【「武士」とは武装した開拓農民である】

★「律令国家体制」という当時の東アジアのグローバリズムをそのまま古代日本に持ち込んだところで、うまくいくはずがない。律令形態はたちまち形骸化。それに代わって新たな枝として生じたものが「武士」。武士が日本の象徴とされるのは、これが他の東アジア諸国には見られない現象であったからである。(欧州の騎士とは近い。)

★常備軍を失った平安期、東国の開拓農民や、俘囚と呼ばれた蝦夷の末裔たちは自分の土地を守るために武装する。これは19世紀、西部開拓を進めたアメリカの農民とよく似ている。

★これらの武装集団がやがて統一されてできたのが武士団であり、さらに武士団と武士団が衝突して主従関係のネットワークが形成されていく。ただ、武士団形成を物語る史料は不足している。

唐が崩壊したあと、東アジア全体でも激動期に入る

各地の律令体制が同時期に崩れる。

  • 907 節度使・朱全忠が唐を滅ぼす(五代十国時代の始まり)
  • 918 高麗の王建が新羅を滅ぼす
  • 926 契丹の耶律阿保機が渤海を滅ぼし、東丹国を建国する
  • 929 東丹国が日本へ遣使
  • 930年代 日本で平将門の乱、藤原純友の乱(承平・天慶の乱)

平将門の乱、藤原純友の乱は偶然生じたわけではない

【なぜ名門出身の平将門は関東にいたのか】

★皇統を継げない皇子たち、藤原氏であっても高位官位をもらえなかった一族は没落貴族となって地方へ下った。

  • このとき、「守」=長官(県知事)、「介」=次官(副知事)、「掾(じょう)」=三等官、「目(さかん)」=四等官などの肩書を得る。親王任国で守が現地に赴任しないときは介を任命して派遣。これが「受領」。

★国司の下には「郡司」がいる。これは土着の有力農民で、もちろん武装している。彼らは徴税を嫌がり、国司に賄賂を贈り、お目こぼしをもらう。そして主従関係が結ばれる。有能な国司は郡司をうまいこと使いこなし、任期が終わるとちゃっかり荘園領主になっていたりする。没落貴族にしても郡司にしても基本的に中央へは反感をもっており、平氏、藤原氏などの貴種が担がれる。

平将門の乱の火種は武蔵介となった源経基と、武蔵権守(知事代理)の興世王(皇族)。

  • 彼らは着任早々、賄賂を要求し、拒否した郡司の家を焼き払う。郡司からの訴えを聞いた将門が駆けつけると、源経基は京に逃げ帰り、興世王は将門側に寝返る。
  • 翌年、常陸守とも対立した際、常陸国府を占領した将門に対して、興世王は「一国盗るも坂東(関東全体)を盗るも一緒」とそそのかし、将門は939年、「新皇」を名乗る。朝廷が任命した国司を追放し、自ら国司を任命した。
  • ここまで来るとやり過ぎ感はあったが、この失敗例が頼朝につながったのであろう。
  • 当時の「将門記」にもあるように、耶律阿保機が渤海を倒したことも、この実力主義を後押しするものであった。

★源経基が将門追討軍として中央からやって来ようとするが、その前に平国香の子である平貞盛と、下野国の藤原秀郷により将門は討死。興世王も処刑。最初の武士団の反乱は、同じく地方の武士団によって鎮圧された。

★その後の関東では源経基の一族が勢力を拡大することになるが、この子孫が源頼朝。一方、桓武平氏は関東から伊勢国に拠点を移し、海賊勢力を手なずけていく。この伊勢平氏の子孫が平清盛である。(そして、再び源平合戦として歴史が繰り返される。)

【「ミイラとりがミイラ」になった藤原純友】

★藤原純友も没落貴族であり、伊予国の掾として赴任。海賊退治などを行っていたが、海賊の首領たちを手なずけているうちに、自分が首領となり、任期が話終わっても帰京せず愛媛と大分の間の日振島を本拠地として国司の一行などを襲撃していた。

★藤原純友の乱を平定したのは伊予国の豪族、橘遠保。「伊予水軍」と呼ばれる「海の武士団」の統率者。伊予水軍の本拠地は広島と愛媛県の間の芸予諸島。ここは戦国時代における村上水軍の拠点でもあり、明治期には江田島海軍兵学校が設立された。

【橘遠保】…?-944年。平将門の乱での防戦で功をたてる。のち、伊予警固使として瀬戸内海で乱をおこした藤原純友を討ちとり、伊予宇和郡をあたえられた。帰宅途中に斬殺された。

【博多に来襲した「刀伊」の正体とは】

★のちに「倭寇」とよばれる東アジアの海賊集団の原型はこの時期に出現していた。9世紀に「新羅の賊」が対馬、五島列島、北九州を襲撃。これはソマリア内戦の結果、1990年代からアラビア海で海賊が横行するようになったことと似ている。

★将門の乱の10年ほど前にはモンゴル高原で「契丹」が成立。耶律阿保機が病没後、次男の耶律堯骨が後を継ぎ中国出兵。燕雲十六州を制圧。耶律阿保機長男の耶律倍は継承者争いに敗れ、弟に帝位を譲り、自分は旧渤海料に東丹国を建てることを許された。

★のち、東丹国は契丹の直轄領となり、渤海の民は四散して「女真族」と呼ばれるようになる。この一部が無国籍の武装集団として高麗国を襲撃。高麗人が、彼らを「刀伊」と呼んだ。

★当時、大宰権師には藤原隆家。伊周の弟で、花山法皇に矢を射抜く指示をした人物。道長に嫌われ、自ら大宰府赴任を申請していた。この時期に彼のような武闘派が大宰府に赴任していたことは重要な意味を持つ。

★道長が望月の歌を詠んでいる最中にも刀伊は日本へ向かって南下しており、1019年3月27日、対馬を襲う。村々は焼かれ、住民は拉致されるか殺害、牛馬はむさぼり喰われる。命からがら脱出した対馬守の報告により藤原隆家は各地の豪族、海賊を招集。彼らを指揮したのは70歳を超えた老将・大蔵種材。

★大蔵種材は祖父が純友の乱鎮圧で活躍した北九州武士団の惣領。対馬に続いて壱岐を血の海に染めた刀伊軍は4月9日、ついに博多湾上陸。17日は肥前に転戦するが松浦党と呼ばれる海賊衆により迎撃。

★時の大納言・藤原公任は「朝廷の勅令前に隆家は戦闘を開始したために、これは私闘であり、政府は関知しない。恩賞不要。」と斬り捨てるが、権大納言・藤原実資が「そんなことでは誰も戦わなくなる」と反対意見を述べ、最終的に恩賞が得られた。

★この大事件の後も、藤原氏は権力闘争と私腹を肥やすことに明け暮れる。

【海賊衆に支えられて力をつけた伊勢平氏】

★伊勢平氏が伊勢国に移ったことで、熊野大社へ向かう海上ルートをおさえていた海賊たちは藤原純友に代わる新たな貴種として平氏を選んだ。

★白河上皇の護衛を努めて出世した平忠盛は越前守に任ぜられ、そこで若狭湾に来航した宋の商人より日宋貿易の利益について学ぶ。そこで、瀬戸内経由で外国商船を大坂湾へ引き入れれば莫大な利益を生むことがわかり、のち備前守に転じ、続いて志願して瀬戸内の海賊追捕使となった。

★忠盛は海賊衆を手なずけ、見返りとして関税徴収権を与えた。また瀬戸内沿岸で荘園を整備し、宋船を引き入れ、そこで得られた莫大な利益を皇室への上納金とすることで、「地下人(じげびと)」と蔑まれていた武士でありながら、宮中への昇殿を認められることとなった。

★これを妬んだ貴族たちが忠盛を闇討ちする話をもちかける、というのが平家物語冒頭にある。

★忠盛の子、清盛は安芸守、播磨守を歴任し、父の基盤を継承し、厳島神社を造営し氏神とする。そして、瀬戸内海賊を統率し、交易を独占。莫大な利益を上納し、武士として初めて太政大臣に。

★1172年、宋の商船が大輪田泊(現・神戸港)に入港、国書を交換して日宋貿易開始。日本に大量の銅銭が輸入された結果、本格的な貨幣経済へ移行する。

★清盛は高熱で死んだが、これは輸入がもたらしたマラリアではないかとの疑いもある。カリスマを失った平氏は崩れ、瀬戸内の海賊も寝返る。一ノ谷の合戦で大勢は決定し、壇ノ浦で壊滅。

★海の武士団の不文律として「漕ぎ手は討たない」というのがあったが、陸の武士団である源氏は、容赦なく射殺した。やがて、海賊たちは北条氏と姻戚関係を結び、共存を図ろうとするが、元寇においては最前線に立たされることとなる。

8.シーパワー平氏政権vsランドパワー鎌倉幕府

【「国家社会主義」から「市場経済体制」へ】

★唐では金山、銀山が少なかったため、高額取引をするには銅銭の引換券を発行し、信用取引で高額決済を行った。これを飛銭という。銅も少なかった五代十国時代の蜀では交子と呼ばれる飛銭を発行、のちの宋政府がこれを公認した。北宋の交子、南宋の会子が世界初の紙幣。

★そしてだぶついた銅銭は周辺諸国に広まった。日本の朝廷も独自通貨を発行していたが、日本商人は、この銅銭(宋銭、明銭)にとびついた。日本の通貨で初めて大量流通したのは江戸時代の寛永通宝である。

★1019年、刀伊の入寇が起きるが、その女真族が約1世紀後に建てた金王朝が靖康の変(1125~26年)により開封を攻略し、宋王朝は江南へ亡命し、南宋となる。南宋の経済は活況を究め、首都の臨安は東シナ海に面した海港として発展。宋の商船は銅の精錬に使う水銀や木材を求めて日本の博多や越前敦賀に来航した。この時、越前守として彼らに対応したのが清盛である。

★中国では唐により国家社会主義がとられたが、唐の弛緩により市場経済体制となった。

【グローバリスト清盛と南宋の平和外交】

★清盛は、「これからは銭の時代」と読み、福原遷都を決行し、博多に来航していた商船を瀬戸内海まで招き入れ、大量の宋銭を手に入れた。後白河法皇を取り巻く公家、九条兼実などは明らかにこれを嫌っていた。「穢れ」思想は飛鳥・奈良時代には見られないが、この時期には成立している。

★宋からは銅銭、絹織物、茶葉、日本からは銅、硫黄、木材などが送られた。

★宋は唐が軍人のクーデターにより滅びたという経験から文治主義を取り入れ、周辺各国とは経済援助で平和を保った。契丹とは1004年、澶淵の盟により莫大な支払いを約束したが、これに窮すると金と同盟し、契丹を滅ぼした。しかし、今度は金に支払いを要求され、これを拒否したがために靖康の変(1125~26年)で首都開封陥落、上皇・皇帝・皇族・官僚数千人が拉致されるという事態に陥った。

★それでも宋は文治主義をとり(主戦論の岳飛は獄死)、日本とは民間ベースの交易は続く。日本でも鎌倉仏教の開祖たちは商船に乗って宋に留学している。栄西が座禅の最中の眠気覚ましとして茶を伝えたことは、いまなお大きな影響を与えている。

【「次は日本を攻める。10万の兵を編成せよ」】

★モンゴル帝国2代オゴタイ・ハンは長城を超えて金を滅ぼす。このとき南宋はモンゴルと連携して金を滅ぼしているが、今度は金という緩衝地帯がなくなった結果、南宋自体がモンゴル帝国の標的に。4代目モンケの頃から南宋攻略作戦が開始される。

★この期に及んでも南宋は文治主義を貫き、軍人の台頭を嫌うあまり、宰相の賈似道はモンゴル侵攻の報告を握りつぶしていた。南宋軍の守備隊長の呂文煥は政府からの支援なしに5年間包囲網と戦ってきたが、5代目フビライは「あなたは良く戦った。いまは、投降せよ。厚遇を約束する。」と寝返らせ(1273年)、襄陽陥落。

★20万人のモンゴル軍により首都陥落。抗戦派は幼帝を守り香港近くの無人島である崖山に1000艘の船をつないで要塞を造り立て籠もるも、フビライ軍により攻略。陸秀夫は幼帝とともに海に身を投げる(1279年)。

★崖山攻略に功績があったアラブ系大商人の蒲寿庚を慰労し、次は日本に10万の船隊で行くことを明言。

【わずか1日の戦闘で終わった文永の役】

★モンゴルからの手紙、「兵を用いることを誰が望むだろうか」という部分を非礼だ、ということで交渉は決裂。2度目の国書に関しては後深草上皇の意を受けた菅原長成が文章を作成。彼はあの菅原道真の子孫である。

  • 彼の文章からは「神国思想」が元寇の前からあったことがわかるが、「どうせ相手は攻撃してくるから道理を説く必要などない」、という鎌倉幕府の反対で、この文章はモンゴルには渡されなかった。

1274年、元軍25000人、高麗軍8000人が900艘で出陣。日本側は九州の御家人と海賊の松浦党に非常招集をかけて善戦。しかし、敵は博多上陸。日本は水城まで防衛ラインを下げる。日が暮れて軍船に戻ったが、ここで暴風雨に遭い1万数千人が被害に。

「アンゴルモア」が面白い

【旧南宋軍を棄民にした日本遠征の結末】

★翌年訪れた使者は時宗が斬首。南宋から降伏を勧める文章をもってきた使節も全員斬首。いよいよモンゴル軍は10万の兵力と3500艘で寧波出発。しかし、4万に増員された日本軍により上陸できず。さらに元軍の士気の乱れをつき、南宋兵3万を捕虜、残りのモンゴル兵、高麗兵は皆殺し。(1281年、弘安の役

★日本遠征の失敗によりフビライの権威は傷つけられ、内紛が引き起こる。威信回復のために行ったジャワ遠征も失敗。3度目の日本計画は実現せず。フビライは1294年死亡。

★東方の「征服できない国」のイメージは元の外国人によって西方に広まる。マルコ・ポーロ「東方見聞録」しかり、イル=ハン国の歴史家、ラシード・ウッディーン「集史」しかり。

9.国際商業資本が支えた室町グローバリスト政権

【鎌倉幕府は経済失政によって滅んだ】

★流通や経済に対して無知であった東国武士政権において大量の銭が回ると、高利で銭を貸す金融業者が出現。彼らは預かった担保を倉に入れていたので「土倉」と呼ばれた。酒造業者も金融業を営んでいたので、鎌倉室町時代において「土倉・酒屋」と言えば金融業者を指した。

★元寇後、土地が増えず生活に困窮した武士たちは安易に金銭を借り、返済に苦しむ。訴えを聞いた9代執権北条貞時は1297年、「永仁の徳政令」を出すが、これにより信用経済は破綻。平氏なら幕府が低利融資をするなどもう少しまともな方法を考えたであろう。

★室町幕府は鎌倉幕府に比べて直轄領が少なく、財政は米ではなく銭とした。土地に課税する段銭(たんせん)、家屋に課税する棟別銭、商業活動に課税するさまざまな税などがあり、これは幕府の財源になるほど市場経済が活性化していた証拠である。

★流通が富を生むことを学んだ室町幕府は経済大国である元との貿易に目を付けるのは自然。

【沈没船が教えてくれる日元貿易の実態】

★元寇の後も民間レベルの交易は続く。日本商人は宋銭や安い絹織物を求め、中国商人は銅鉱石や硫黄(火薬の原料)を求めた。南宋から多くの禅僧も日本に渡り、日本からも留学僧が渡る。天龍寺船なども「寺社造営料唐船」の1つ。

★懐良親王が瀬戸内海を渡って九州に行っているが、これには海賊の手助けがあった。さらに九州大宰府に入ってからは博多商人も南朝支配下に入った。明から最初の使節が訪れたのはこの時。

【明の洪武帝はなぜ「海禁令」を出したのか】

★フビライの死後、元の求心力は失われ、相次ぐ外征により財政逼迫、銀の裏付けがない交鈔を乱発し、インフレを引き起こす。これに張士誠、方国珍ら各地の大商人たちが暴動。一方、運河建設の労働者を組織した白蓮教徒が紅巾の乱をおこし(1351~66年)、朱元璋がこれを引き継ぐ。

★のち、朱元璋らランドパワーと、方国珍らシーパワーの覇権争いに。日本の幕府からの統制を離れた「悪党」、「海賊」と、中国側のシーパワー勢力が融合し、「倭寇」が誕生。ときには交易を求め、ときには掠奪を行う。

★朱元璋は倭寇の脅威を深刻に受け止めた。当時、日本の悪党は傭兵ともなっていた。1368年、明を建国するが、その3年後に海禁令を発する。倭寇と結ぶ張士誠の残党の復活を恐れた。方国珍は懐柔。

【最強のグローバリスト・足利義満の勝利】

★1369年、朱元璋が懐良親王に国書を送るが、居丈高な内容に使者は処刑。しかし、その翌年は臣従。これには今川了俊による攻撃が考えられ、実際に、この後、今川了俊が大宰府を奪回することとなる。明からの冊封使は今川軍にとらえられ、実際に冊封は行われなかった。

★明は義満のことは「日本国王」に対しての「謀反人のリーダー」として見ており、義満が「日本国征夷将軍源義満」と名乗り国交交渉を行うも拒絶されている。

★その後、義満は将軍を譲位し、准皇族となった立場から交易を開始。当時、2代目建文帝と永楽帝の争いがあり、2パターンの国書を作成して臨んでいたが、靖難の役の結果、永楽帝支持をすることで「日本国王之印」をもらう。また勘合貿易も開始。

★義満は日本の独立よりも貿易の拡大を目指した。彼を後押ししたのは博多と寧波の商人、漢文を自在に操る禅僧ら。

【無国籍の海上勢力「倭寇」の台頭】

★しかし、この一大転機に対してナショナリストたちが反撃。その中心人物が4代将軍足利義持。1408年、義満が死亡すると、義満に溺愛されていた弟の義嗣を追放。翌年は明の使節を入国拒絶。永楽帝は武力行使をほのめかすも、一切応じず。

1419年、応永の外寇で朝鮮軍が対馬に攻め込んできたが、これは明が裏にあるとし、日本国王から「日本国源義持」と国書を変え、義満の称号も太上天皇ではなく一臣民とするよう、日本国の君主は万世一系の天皇であり、将軍家はその臣下、という立場を堅持した。

★博多などの国際商業資本は困った。明は海禁、朝貢使節に随伴するものだけが交易でき、他は倭寇として取締の対象。財界の圧力により6代将軍義教の代で勘合貿易が復活。

★応仁の乱を経て戦国時代に突入し、博多商人と結ぶ大内氏、堺商人と結ぶ細川氏が「日本国王」を名乗り、勘合船を派遣。1523年、寧波に入港した大内氏の船が後から来た細川氏の船を襲撃、逃げ込んだ町にも被害を与えると言う「寧波の乱」も生じる。 【コチラも

★大内氏の滅亡(1551年)により、勘合貿易は途絶。ただ、これは朝貢貿易により財政悪化もあった明側の意図でもあった。

★明の財政圧迫により倭寇取締は緩む。これにて東シナ海沿岸部では密貿易再開。武装商人が中国へ渡航し武器をもたらして、絹を密輸。こうした後期倭寇に、ポルトガル人やイエズス会宣教師なども加わり、日本史が世界史に組み込まれていく

<つづき>