~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「孝謙天皇」時代です。

奈良時代最後の女帝である孝謙天皇(=称徳天皇)は、奈良時代の主人公の1人です。

最初の在任中は藤原仲麻呂を重用しました。

(というより、母・光明皇后に取り入った藤原仲麻呂にうまく利用されました。)

のち、2人は対決することになるのです。

第46代:孝謙天皇期(749年~758年)

【孝謙天皇】…718-770。
聖武天皇皇女、阿倍内親王。749年即位。
従兄の藤原仲麻呂を重用し、大炊王(おおいおう)に譲位。
しかし、のちに藤原仲麻呂の野心に気づき、仲麻呂と決戦。
称徳天皇として重祚する。 

749 聖武天皇、娘の阿倍内親王に位を譲る。孝謙天皇誕生。
752 開眼供養会
(※臣下の礼に応じなかった新羅とは敵対
753 鑑真が来日

※6度目のtryでようやく成功。後に、唐招提寺(南都六宗の1つである律宗の総本山)を開く。

★長屋王が1000枚の袈裟を送ったことに感動したから来ることを決意したとも。
★失明したことが有名であるが、日本に来てから失明したのではないかと言われている。
★阿倍仲麻呂の舟は遭難
754鑑真、 東大寺に戒壇を設け、聖武太上天皇、光明皇太后らに戒律を授ける。

♨鑑真が開いたのが「唐招提寺」で、戒壇を設けたのが「東大寺」。
755 唐で安史の乱(~763)。

※これにて外圧が低下した。その反面、弛緩したとも考えられる。律令制は崩壊し、荘園は増加。

※一方、この頃、渤海国から新羅討伐計画が持たれていた。藤原仲麻呂は乗り気であったが、孝謙天皇は慎重論を唱え、対立。

♨もしもこれに介入していたら「第二の白村江」になっていたかもしれないという説。
※ 聖武天皇の頃から日本と新羅は臣下の礼などを巡って敵対していた。
756父・聖武天皇死亡
757道祖王廃太子

橘奈良麻呂の乱

橘奈良麻呂は橘諸兄の息子。藤原仲麻呂の専横に不満を抱き、大伴古麻呂・小野東人らと語らい仲麻呂の排除を画策したが密告があり獄死。

※仲麻呂は反対派粛清を目指した。
♨藤原氏の本当のライバルは大伴氏という話も。
758淳仁天皇に禅譲

749年、孝謙天皇即位

皇太子となっていた弟の基皇子は早逝。

(これが「長屋王の変」で長屋王とその男児たちが陥れられた一因となります。)

その後も聖武天皇と光明皇后の間には男児に恵まれませんでした。

そのため、藤原不比等を祖父に持つ「藤原家の1人」でもある阿倍内親王が、孝謙天皇として即位することになりました。

ただ、この時期は、まだ光明皇后が健在で、政治は主に光明皇后と、光明皇后に取り入った藤原仲麻呂が中心となって行っておりました。

(橘諸兄は藤原仲麻呂の奸計により(?)、降格させられてしまっております。)

孝謙天皇は、まだ「お飾り」です。

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感想(0件)
奈良時代は孝謙天皇を主人公にすると、とても理解しやすいです。そうしたところも含めて、このマンガは秀逸。
厳密には橘奈良麻呂の変(757年)で兄・豊成を追い落としたのがポイントであろう。

753年、鑑真来日

鑑真は唐から出国を止められるほどの高僧でしたが、遣唐使・大伴古麻呂の機転でなんとか船に乗り込み日本へ。

(その大伴古麻呂はのちに橘奈良麻呂の変に連座して死刑となります。)

【阿部仲麻呂、またしても帰国できず…。】(※漢字注意。阿部でも、安倍でも安部でもない。)

【阿倍仲麻呂】…698-770。19歳で吉備真備、玄昉らとともに第8回遣唐使に選ばれる。玄宗皇帝に仕え、李白や王維らとも交わる。優秀であるがゆえに733年は帰国を許されず、752年、入唐した吉備真備らとともに帰国することを許された。鑑真らの船は日本へ辿り着いたが、阿部仲麻呂の乗った船は安南(アンナン)に漂着してしまい、再び唐朝に仕えた。770年、客死。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

百人一首は鎮魂歌?

♨ なお、同時期の遣唐留学生・井真成の墓誌が2004年西安で発見されたという。36歳で亡くなった彼もまた優秀であった。彼の死を悲しんで玄宗皇帝が 螺鈿紫檀五絃琵琶 を聖武天皇に送ったのではないか?という説もあるほど。

757年、橘奈良麻呂の乱

聖武天皇死後、藤原仲麻呂はさらに自分の権力基盤を確固たるものにするため、自分にとって障壁となるであろう人物を追い落とします。

その中には自分の兄である藤原豊成も入っておりました。

里中満智子先生の「女帝の手記」は奈良時代を学ぶのに最適のマンガです。
反乱を起こしたわけではなく、「仲麻呂が反対派を粛清した」という方が正しいかな?

758年、大炊王に譲位

藤原仲麻呂を父のように思う大炊王に譲位しました。

しかし、藤原仲麻呂の真の狙いは自分が天皇よりも上の人間になることだったのです…

そのことに気づいた孝謙天皇は仲麻呂と対決することになるのです…

「女帝の手記」より。仲麻呂の専横に不満を抱く貴族たちもいましたが、孝謙天皇を味方にしていた仲麻呂は一歩先を行っていました。聖武天皇の遺言であった道祖王は素行不良を理由に廃太子となり、大炊王が立太子。

「女帝の手記」を読む上で

里中満智子先生の「女帝の手記」は奈良時代を学ぶのに最適のマンガです。

奈良時代は孝謙天皇を主人公に考えると、その前もその後も非常に良くわかりやすいです。

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かなりオススメ!

主な登場人物である光明皇后、藤原仲麻呂、孝謙天皇、道鏡の年齢だけ把握しておきましょう。

出生年
光明皇后701年
藤原仲麻呂706年
孝謙天皇718年
道鏡700年

光明皇后と孝謙天皇が親子でありながら17歳差というのが、いろいろ混乱する原因の1つでしょうか。

そして、藤原仲麻呂にとって、光明皇后は5歳上、孝謙天皇は12歳下です。

それを理解したうえで読むと、よりイメージしやすいでしょうか??