~只今、全面改訂中~

§2.日米和親条約を容認した徳川斉昭

米墨戦争(1846年)の英雄ペリーは1852年にアメリカを出発し、大西洋を回って来て沖縄と小笠原に足場を築いてから、1853年、浦賀に到着。国書を受け取らせ、翌年の条約締結を約束する。

※1846年の米墨戦争における海軍・ペリー提督と陸軍・スコット将軍による「ベラクルス港上陸作戦」は有名。これによりサンフランシスコとサンディエゴを得たアメリカは海洋国家としての足掛かりを得る。太平洋航路はまだ安全性が確立されておらず、アメリカはまだイギリスが手を出していない太平洋航路開設を目指した。1852年にペリーがアメリカを出発した際も大西洋回りである。

※ペリーは「沖縄に基地を建設すべき」と沖縄を最重要視。小笠原諸島では土地を購入している。ペリーが来ることを幕府は1年前から知っていたが、多くの人に伝えていなかったために大騒ぎとなった。多くの幕僚は「即時、打ち払い」を主張するが、米墨戦争時の写真を見た老中阿部正弘は、日本の武器はメキシコにも劣ることや、アヘン戦争の顛末も知っているため戦えば負けると考えていた。徳川斉昭を頼ると、斉昭は「国書受け取り」に理解を示したため、阿部正弘は国書を受け取り、ペリーは来年の再訪問を約束した。

※阿部正弘が外様大名にまで広く意見を求めことは異例である。長州藩主毛利敬親は「主戦論」、佐倉藩主堀田正睦は「積極的開国論」、幕臣勝海舟は「出貿易論」などを唱えた。集まった書簡は700通以上。

ペリーは江戸湾退去後、再び沖縄に寄る。そこで、琉球政府に武力行使も辞さない構えで沖縄拠点化を要求した。明日までに返事しろ、と告げて香港に戻るが、この頃、本国では共和党政権から民主党政権(ピアス大統領)に変わっており、方針変更を余儀なくされた。これが1853年11月

ペリーの行動はこれまで長崎で平和的な交渉を行っていた英仏露の反発を招いた。イギリスの香港駐在主席貿易監督官ボンハム卿は小笠原諸島がイギリスのものであることを主張。ロシアはプチャーチン海軍中将を長崎に送り、「日露和親条約草案」を作成。

ロシアは1705年(綱吉時代)から日本語学校を設立して通商のための通訳育成を図っていた。1730年にアラスカを手にし、1792年にはエカテリーナ2世がラックスマンを根室に派遣。1804年にレザノフが来日するも交易は拒絶された。1830年代には地中海に目を向けたが、イギリスに事あるごとに阻止された。ニコライ1世は、第1次エジプト=トルコ戦争でエジプトに敗退したトルコと1833年、「ウンキャル・スケレッシ条約」と呼ばれる軍事同盟を結び、念願の地中海進出を果たしたが、英露普墺がトルコ側についた第2次エジプト=トルコ戦争後の1840年のロンドン会議、翌年の仏も加わった会議で同条約を破棄させられた。1853年には、トルコに同盟を拒否されてクリミア戦争(トルコ+英仏、墺、サルディーニャvsロシア)が勃発。(この年はペリー浦賀来航した年)。ロシアとしてはペリーに横槍を入れられた形となったため、択捉島領有問題の話し合い解決と北海道、江戸方面2港の開港を紳士的に依頼。

※紳士的なロシアと組んでアメリカと戦うという案もあった。しかし、ロシアが本当に日本のために戦ってくれるとは思えず、徳川斉昭は「アメリカとロシアはおそらく談合が成立しているので、ロシアと組むという考えは危険。どんなに辛く厳しくともアメリカと真正面から交渉すべし」と否定。(♨実際は談合したわけじゃないんんだけど。)

クリミア戦争はロシアの敗北をもって1856年終結。ニコライ1世は1855年に死亡しており、後を継いだアレクサンドル2世は改革の必要性を感じ、1861年農奴解放令を行う。クリミア戦争で英仏露が忙しかったため、米国が日本を開国させることができた

訓令違反とならないよう早く行動を起こさねばと思ったペリーは、1853年1月、予定より数ヵ月早く浦賀に来航。幕府側の全権は林大学頭。アメリカ側の強硬な通商要求を理路整然とかわす。

1854年3月、『日米和親条約』を結ぶ

※この間、ペリーは江戸湾の測量を勝手に行なうなど挑発するが、幕府方は林大学頭の指導を守り自制した。米墨戦争(アラモ砦)、米西戦争(ハバナ港でメイン号が謎の爆沈)、太平洋戦争(真珠湾)など、すべてこの【挑発→仕返し】のパターンである。

林大学頭(「近代日本の大誤解」より)…ペリーの恫喝外交の理論上の矛盾点をついて、ペリーをやり込める。

『日米和親条約』…薪水・食糧供給(下田・函館)、漂流民救助などを定めたもの。通商に関しては拒否

(※)ペリーとしても大統領が変わって方針が変更していたことも、日本にとっては幸いした。

阿部正弘はオランダの助言を受けて海軍整備に勤めた。1855年に老中引退、1857年死去。その後も海軍整備は続けられ、1867年には対米7割の海軍力を有することができた。

阿部正弘…「安政の改革」で幕府海軍を創設。長崎奉行に抜擢された水野忠徳はオランダから軍艦購入。阿部は過労のため、39歳の若さで病死するが、阿部亡き後も海軍建設は進む。ペリー来航から14年後、アメリカ東洋艦隊の7割の海軍を整備。

(※ちなみに、大正11年(1922年)のワシントン会議、昭和5年(1930年)のロンドン軍縮会議で対米7割を実現できず。)

オランダ…「世界の軍艦は木造外輪式から鉄製スクリュー式に移っており、ペリー艦隊はちょっと古い。」とアドバイス、最新式の軍艦を買うことを幕府に進言。ちなみに海軍力は「イギリスがトップで、オランダが5位。アメリカが8位」とのこと。