3代:家光…ナイーブ将軍
1604 | 誕生。幼名竹千代。 乳母(※教育係)はお福(春日局…斎藤利光の娘。利光は明智の重臣であったため本能寺の変後に秀吉に討たれた。お福4歳)。 |
1606 | 弟、国松生まれる (「デキスギ国松」。お江にとって乳母の朝倉局は秀忠の側近の妹で仲が良く、家光は孤独に)。 |
1611 | お福、駿府の家康に竹千代の不遇を直訴。8歳。 |
1612 | 家康、お江の国松偏愛に訓戒状。 (※長幼の序を重んじるように!と。) |
1615 | 自殺未遂。12歳。 (※母子関係はますます悪化していた。お江も家光が自閉症気味で悩んでいたのでは…) ♨そんなことがあったとは。だいぶイメージが違った。 |
1616 | 家康死亡。傅役に酒井忠利、内藤清次、青山忠俊。13歳。 (※青山忠俊の諫言を嫌い、将軍になってまずやったことが彼の追放…) |
1620 | 元服。 お福の外孫、堀田正盛、家光の小姓として出仕。17歳。 |
1622 | 酒井重澄、小姓として出仕。 |
1623 | 3代将軍就任。20歳。 |
1625 | 鷹司孝子(22歳)と結婚(※終生、別居を貫く)。22歳。 |
1626 | 母、お江死亡。 |
1629 | 紫衣事件。痘瘡を患う(→生死をさまよう)。 |
1631 | 父秀忠病臥。弟忠長、甲斐に蟄居。 |
1632 | 弟忠長、上野高崎に幽閉。紫衣事件で配流された沢庵ら赦免。 家康の17回忌に合わせ日光へ。 (※秀忠の喪中にも関わらず、家康優先。生涯10回社参。大改築も。) |
1633 | 鎖国制度開始。 酒井重澄改易。 弟忠長、自刃。 |
1634 | 諸大名の妻子、江戸居住となる。鬱症状はじまる。31歳。 |
1635 | 武家諸法度改定。参勤交代制度化、大船建造の禁。 (※当時は鬱で、家臣が中心となってやっていた。) |
1637 | 長女・千代姫誕生。 島原の乱。 【コチラも】 (※家光の出番なく鎮圧。当時いた武士150万人のうち、100人に1人は死亡した。領民の多くも死亡。結果、年貢を取れずに国が傾くと言う経験をしたことで、武断政治から仁政政治への転換となった。12万vs3.7万。) ※ちなみに武士の人口比率は1割。 ♨将軍の出番なくても乱が平定されるほど、既に優秀な家臣団による政治が確立していた。 |
1639 | ポルトガル船来航禁止。 |
1641 | オランダ人を平戸から出島へ移転する。 長男竹千代(のちの家綱)誕生。→鬱も安定。38歳。 |
1642 | 寛永の大飢饉 |
1643 | 田畑永大売買の禁。春日局死亡。40歳 |
1644 | 次男・長松誕生(のちの甲府宰相・綱重) |
1646 | 4男・徳松誕生(のちの綱吉)。43歳 |
1651 | 死亡(脳卒中)。堀田正盛、阿部重次、内田正信ら殉死者多数。48歳。 |
★学習して最もイメージが変わったのが家光。よくデキる弟のせいで「生まれながらの将軍」ではなかった。「長幼の序」って言葉がこんなところでも使われていたとは。
★「参勤交代制度化」、「島原の乱平定」も、家光ではなく徳川家臣団のおかげ。将軍が鬱でも機能していた。
★死亡時の殉死者多数。人徳があったのか?もっとも、これを機に「殉死の禁止」が決定。武士は「上司」に仕えるのではなく、「家」に仕える存在となった。また、死後に起きた由比正雪の乱で「末期養子の禁緩和」などの政策が出て、時代は「武断政治」から「文治政治」へと変わっていく。家光の死は1つの転機。
★鎖国政策の移り変わりは、試験頻出【コチラも】。