~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、徳川6代・7代将軍の「家宣・家継」です。

4代将軍家綱、その弟の5代将軍綱吉とも跡継ぎに恵まれませんでした。

そのため、家綱の弟(綱吉にとっては兄)の「綱重」の息子、家宣が6代将軍になりました。

これにより、徳川家康→秀忠→家光→家綱・綱吉という直系の血筋は途絶えるのです。

しかし、家宣も死に、7代将軍となった家継も8歳の若さで死んでしまいます。

そのため、家光系の血筋も途絶えました。

この時代は跡継ぎが生まれるかどうか、そして生まれたとしても成人まで育つかどうかが非常に大きな問題でした。

以下、1st bookとして最適の堀口茉純先生「TOKUGAWA 15」(2011年、草思社)を参考にさせて頂きました。

6代:家宣…下積み将軍

1662 甲府宰相・綱重の児として生まれる。
1664 養子に出される。2歳。
(※この時、綱重は二条関白家の娘と縁談が決まっていたため、家臣・新見正信のもとに養子に出された。)
1670 実家に戻される。9歳。
(※二条関白の娘が死亡したため後継者として迎えられる。養父・新見正信は甲斐に閉居され、養子に出された事実がなかったことにされる。)
1678 父・綱重35歳で死亡。甲府25万石を相続。
(※ちなみに綱重・綱吉兄弟は犬猿の仲であった。)
1679 結婚
1684 貞享暦に改暦。猿楽師間部詮房(19歳)を側用人として取り立てる。
1687 生類憐みの令開始
1693 浪人・新井白石(37歳)を迎える。
(※【新井白石】…怒ると眉間に「火」の字が浮き上がることから、「火の児」と呼ばれる。明暦の大火の翌日の出生でもある。実際にほとんどの肖像画に「火」の字が描かれる。)
1704 綱吉の養子となる。43歳。
(※柳沢吉保の説得があった。しかし、家宣の代わりに次期甲府藩主になったのは柳沢吉保!なんて、ちゃっかり!抜け目ない!)

♨柳沢吉保は将軍の代替わりとともに、家臣も入れ替わるのが常になっていたのをよくわかっていた。 無用な争いをしないのは高度な政治戦略と考えられる。
1707 宝永地震・津波・富士山噴火
1708 イタリア人宣教師シドッチ、屋久島に潜入
1681年、1699年、1707年に引き続き、児死亡。
1709 将軍就任4男・のちの家継誕生

生類憐みの令廃止
(※綱吉に反発する第2代水戸藩主・徳川光圀の進言もあった。ちなみに光圀の編纂した「大日本史」がのちに水戸学につながり、倒幕運動につながる。)
1710 閑院宮創設。
1711 朝鮮通信使の待遇簡素化(※新井白石の大功績)。5男誕生も早世。
1712 萩原重秀罷免。インフルエンザで死亡。51歳。
(※新井白石、間部詮房と良い改革を行っていたが、3年で病死は残念。)

★影が薄く日本史的には覚えなくて良い。
★しかし、生類憐みの令を綱吉死後すぐに廃止したことは知っておくべきか。
★新井白石、間部詮房の登用は良かった。
★子供たちは次々に病死。本人も就任3年で病死と悲劇。

7代将軍:家継…エンジェル将軍

1709 家宣の4男として誕生。兄たちは早世。
1712 父・家宣死亡。宗家相続。
1713 元服ののち、将軍宣下。間部詮房を父と慕うほど。非常に聡明で将来が嘱望された。5歳
1714 絵島・生島事件
(※大奥女中・絵島と歌舞伎俳優・生島新五郎にまつわる。門限破りした絵島が賄賂を渡さなかったのが原因。家宣側近月光院、間部派にとって敗北、家宣正室・近衛家娘の天英院派にとって勝利。計1500人あまりが罰せられる。)

貨幣改鋳(間部詮房の功績)。
1715 海舶互市新令、八十宮吉子内親王(2歳)と婚約
(※家継死去により史上初の降嫁ならず)
1716 肺炎で死亡。8歳。家光系の血統もついに途絶える
家宣、家継時代は「正徳の治」と呼ばれた。

家宣が登用した新井白石による政治は「正徳の知」と呼ばれます。

(※山川出版社はこれを絶賛しましたが、とうほう出版社はこれを「儒教政治の限界」と書いております。両論あって面白いですね。)

★跡継ぎに恵まれるよう名前は「家継」。
★残念ながら8歳の若さで死に、家光系の血統が途絶えた。

江戸時代で打線を組んだ

TOKUGAWA15

→【吉宗編