~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「皇極天皇」時代です。

推古天皇死後、田村皇子と山背大兄王の皇位争いを経て、蘇我蝦夷の力を受けた田村皇子が即位(舒明天皇)、

そして舒明天皇死後、その妻であった宝女王が「皇極天皇」として即位しました。

天智天皇、天武天皇、間人皇女(孝徳天皇妻)を生んだキングメーカーでもあります。

(さらに言うと、37歳で再婚して、そこから彼らを産んだ。)

一方、蘇我蝦夷は全盛期。

その蝦夷の専制に対して「乙巳の変」が起きた、と教わった人もいるのではないでしょうか?

第35代:皇極天皇期(642年~645年)

【皇極天皇】…在642~645年。舒明天皇后で、何気にキーパーソン。
天智天皇、天武天皇の母親。孝徳天皇妻の間人皇女の母親でもある。
在位中に「上宮王家滅亡事件」、「乙巳の変」が起きた。

642 皇極天皇即位。今度も山背大兄王はならず。

高句麗でクーデター

(※淵蓋蘇文が唐との対決を決意し、穏健派を多数殺害し、軍事政権樹立。百済と結んで新羅侵攻した。新羅は唐に救援を求めるも唐が要求した女王交代の採否をめぐって内紛となる。640年は日本も含めて東アジアで動乱が相次いだ。 )

百済で政変

(※王族同士の内紛が瘧、義慈王が独裁。)
643 上宮王家滅亡事件
蘇我入鹿が聖徳太子息子の山背大兄王を襲い自害させる⇒古人大兄皇子(舒明天皇第1皇子)が皇太子に。

(※蝦夷の権力強化目的という説もあるが、皇極天皇の命令という説も?!
645 乙巳の変(~大化の改新)

★中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して政治改革を行うという説がこれまで主流であったが、その元となった「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じて作ったものであるので、中大兄皇子が悪く書かれている可能性がある。



乙巳の変の黒幕は軽皇子(のちの孝徳天皇)という説が学会では主流に。軽皇子は皇極天皇の弟であり、本来は天皇になどなれる身分ではなかったが、皇極天皇即位によりチャンス到来とみて、政敵となる古人大兄皇子のバックの蘇我氏を倒すべく中大兄皇子を使って討った、という見方がされている。

※中臣鎌足の息子である不比等が主に編集に携わったとされる『日本書紀』では中臣鎌足の助言により、まずは叔父の軽皇子が孝徳天皇として即位して、中大兄皇子は皇太子となったとある。皇太子である蘇我氏の血を引く古人大兄皇子は謀反の疑いで殺害された。都は難波(=大阪市)に移され、この時、皇極天皇の権力も孝徳天皇に簒奪されたと考えられる。もし中大兄皇子が実行したとするならば、この時点で中大兄皇子が皇太子になっていたのではないかと考えられるが、実際は、そうではないため、黒幕孝徳天皇説となった。

古代史講義戦乱篇/乙巳の変はコチラ

古代史講義/蘇我氏とヤマト王権(後)

画像はwikipediaより。江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれた「乙巳の変」。

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徳川慶喜のやる気」など、この方の他の項も読みましたが、実に理論的で素晴らしい。世に出ているどの書籍、動画よりもわかりやすい、と思うくらい。

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