第53代:淳和天皇(823年~833年)
淳和天皇時代に親王任国制度が開始。
【淳和天皇】・・・786-840。桓武天皇第7皇子。母は藤原百川の娘で、平城、嵯峨天皇の異母弟にあたる。任明天皇(嵯峨天皇皇子)までの中継ぎ的な天皇。
承和の変(842)では、皇太子となっていた息子(恒貞親王)が廃位。
823 | 嵯峨天皇、弟の淳和天皇に譲位。 |
826 | 親王任国制度開始。 ※桓武天皇の息子たち(淳和天皇にとっては兄弟)が常陸、上総、上野の太守に就任。 |
833 | 淳和天皇、甥(嵯峨天皇皇子)の任明天皇に譲位。 皇太子には淳和天皇息子の恒貞親王が就任。淳和天皇も恒貞親王も政争に巻き込まれるのを避けるために拒否していたが、嵯峨上皇の強い意向で恒貞親王が皇太子となった。これがのちの「承和の変」(842)の遠因。 |
桓武天皇から淳和天皇までの時代は「日本後記」に記されております。
六国史では「日本書紀」、「続日本書紀」の次です。
平安時代の両統迭立その1
嵯峨⇒淳和⇒仁明(嵯峨天皇息子)⇒淳和息子(恒貞親王)、というように平安時代にも「両統迭立」がありました。
しかし、淳和天皇即位、恒貞親王皇太子就任には謎が残ります。(なぜ嵯峨天皇は弟の家系も入れたのでしょうか?)
…これには嵯峨上皇が、「藤原氏の一派だけが力が強くならないようにした」という説や、「薬子の変で兄を引き摺り下ろして、さらに自分の息子を皇太子につけたら角が立つ、祟りを受けると思ったから」という説があります。
いずれにしても権力の座を狙う藤原氏(嵯峨天皇シンパ)から身の危険を感じた恒貞親王は皇太子を辞退しようとしましたが、嵯峨上皇は却下します。
840年淳和上皇の死、842年の嵯峨上皇の死で状況が変わる。
多少先走って説明しますが、840年に淳和、842年に嵯峨上皇が死にます。
後ろ盾を失った恒貞親王の身を案じた伴健岑・橘逸勢は、阿保親王(平城天皇の息子)に相談しましたが、
阿保親王は嵯峨上皇皇后・橘嘉智子に相談します。
しかし、これで伴健岑、橘逸勢失脚へとつながってしまうのですね…。
(橘嘉智子と橘逸勢は従兄弟でしたが。)
恒貞親王は最終的には出家し、嵯峨大覚寺の初代住職となりました。
これが「承和の変」です。
3つの勅撰漢詩集について
この時代は漢詩中心です。
空海が百人一首に出てこないことからも理解できるでしょうか。(「性霊集」は漢詩集)
凌雲集、文華秀麗集、経国集は覚えて下さい。
【凌雲集】814年。小野岑守ら。嵯峨天皇時代。
【文華秀麗集】818年。藤原冬嗣ら。嵯峨天皇時代。
【経国集】827年。良岑安世、滋野貞主ら。淳和天皇時代。
神仏習合はこの頃からでした。
また、山岳信仰と仏教が結びついて修験道も発生しました。(室生寺五重塔などが代表。)
室生寺は女性の参詣を認めたので「女人高野」とも呼ばれます。(※三重県境に近い奈良県にあります)。
「密教芸術」と言えば「曼荼羅」を覚えましょう。
826年~、親王任国制度
奈良時代は皇族不足に悩んでおりましたが、平安時代は皇族が無軌道に増えすぎました。
そのため諸問題が生じます。
「桓武から淳和朝で、行政の枢要であるはずの八省の長官に、政務に熟れない親王が無闇に就いた結果、行政に深刻な悪影響を与えた。朝廷は親王を八省の卿から外すため、代わりの地位として上総・常陸・上野の三カ国の長官を用意し、太守と呼んで親王専用とした。それが親王任国制度だ。」
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
いくら無能でも天皇家ですので無碍(むげ)に扱うこともできないし、野垂れ死にさせるわけにもいかないので、地方で役職と食い扶持を与えた、ということですね。